皆さんには「忘れられないニュース」というものがあるだろうか?私にとってそれは、3.11の津波のニュースだ。小学生の頃に見た、津波が迫り来る様子がテレビ画面いっぱいに広がるあの映像が今でも忘れられない。まるで画面を突き破って、私を飲み込んでしまうのではないかと、津波被害がない地域ながらも恐怖を覚えた。そして今でも、津波の映像を見ると心臓が一層大きな音を立てる。自分が被害を受けていないのに、ここまで衝撃を受けた理由は「自分に起こりうる危機だ」と強く認識したからであろう。
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今年に入ってからもう一つ強く焼きついて離れないニュースがある。ガザ地区のニュースだ。連日報道され、多くの人がその凄惨な出来事の一部始終を目にした。土色の建築物が砕かれ、炎と煙が立ち上がる。武装した人と逃げ惑う人。状況を伝えるリポーターも専門家も緊迫した空気を漂わせ、必死に私たちに訴えかけている。
日本から遠く離れた異国の地で起きたこと。それでも私は強い危機感を覚えていた。いや危機感を持つべきなのだと強く感じた。なぜならこれは世界の危機だからだ。今すぐに自分に危害が加えられるわけではないかもしれない。だが同じ世界を共有している以上、互いに影響しあっていることを自覚しなければいけない。そう思わせるほどの強い衝撃が、心を揺らし湧き立たせた。
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その源泉はガザの子供達だった。痩せた体、乾いた唇、硬質な髪。あどけない顔で目を大きく見開き現実を見据えていた。私が見た報道では泣いている子供はいなかった。笑顔を持つ子はもちろんいない。ひたすらに今を生き延びるために神経を尖らせ、そのことに気づく余裕もない。それがなんとも痛々しい。子供が子供らしく笑い、遊び、守られるという子供が持つべき権利を剥奪された彼らを目の前に、自分はなんて無責任なんだと思った。
彼らのために私が物資を提供したり、募金に協力したりしていないから。そういったことを指して無責任と言っているわけではない。何も知らないままでいようとすることが無責任だと思うのだ。
彼らが必死で生きているのに、私は臭いものには蓋をするように目を逸らし、いつも通りの日常に戻ろうとした。嫌なニュースばかりで気分が落ち込むから、飼い猫自慢や赤ちゃんの可愛いらしさだけを集めたニュースで報道が埋まればいいのになんて本気で思っていた。彼らに、自分に、世界に対して無責任だった。
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私は無力だ。ガザについて知る責任を感じて日々流れてくるニュースを追い、分からないことを調べても全てを把握できない。なぜガザが攻撃されているのか、誰がやっているのか、被害状況、これからどうなるか。まず対立構造が複雑でお互いが殺意を持って攻撃し合っているから、どちらが悪いと断定できるほど浅い状況ではない。さらにその対立構造の当事者だけではなく、この戦争で利益を得ようとする勢力がいることも事態を深刻化させている。
歴史、宗教の観点からいってもその溝は根深い。じゃあ、手のつけようがないからしょうがないね。と思考停止しそうになるが、それでいいのかと子供達の瞳を思い出す。明らかに子供たちが犠牲になるのはおかしい。この状況は間違っている。その価値観は捨ててはいけない。曇らせてはいけない。今を生きる一人として、世界の現状を諦めてはいけない。それが私の責任だと思う。歯を食いしばって、現実を精査し続ける。情報を得続ける。苦しいがこれが今できる最善だ。
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続けていると微かに見えてくるものがある。世界は繋がっている。遠く離れたところで起きている戦争の影響は金融や物資の市場に伝播し、地球の裏側で市民運動を活発化させる。津波に恐怖したあの時、そして異国の地で戦争が起こっている今。距離に差があろうとも自分の身に危機が迫っていることは変わりない。インターネットも交通も発達した世界はこれからも距離を縮め続ける。無責任な無関心を私は捨てたい。