吾輩は、繊細さんである。名前は忍足みかん。 繊細である私は小さいことで悩んだり、必要以上に不安になってばかりだ。例えばもし大きな首都直下型地震が起きたらどうしよう…とは常に思っているし、事件や事故に巻き込まれたらどうしよう!と起きもしていないことを想像しては不安になる。
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それから、長年不安なことがもうひとつ。元々スマホ依存症が酷く、精神科にも通うほどだった私。だからデジタルデトックスとして今はガラケー(ガラホ)とタブレットを使っているのだけれど、ふいに『もしガラケー(ガラホ)が製造しなくなったり、流通しなくなってしまったらどうしよう』と不安にかられることがある。
携帯電話ショップや、家電量販店にいくとガラケー(ガラホ)は端にひっそり追いやられていたり、中には置いてない店舗もおり、不安心を煽る。
たかが通信機器のことなのだが、ガラケー(ガラホ)はスマホ依存症にとっては特効薬なのでそれを失うことは想像するだけで、冷や汗と動悸を誘う。
もちろんまだガラケー(ガラホ)を買うことはできるし、絶滅したわけではない。海外ではデジタルネイティブのZ世代がガラケー(海外ではダムフォン、という)に再注目してるなんてニュースも見る。
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だけど1度不安に火がついたらじりじりと導火線のように私を炙る。そんなとき私は手紙を書く。
ペーパーレスだの騒がれて、メールやPDFが普及する昨今だけれど私は便箋に自分の気持ちを書くことで視界を広げてくれることを知っている。携帯電話会社や、メーカー、スマホ依存症に言及してる政治家さんや、読書家やデジタルデトックスをしてるという芸能人…いままでお手紙を書いた人は数知れず。
でも全てが全てなにかに結びつくわけではない。送った側は、封をして切手を貼ってポストに入れたのなら手紙の行く末はわからない。でもたぶん読まれずに捨てられてしまったもののほうが多いだろう。
けれど手紙を送ったことで私を新たな世界に誘ってくれた例もある。名前は言えないけれど芸能人から激励のメッセージを貰えた。携帯電話会社からお返事を貰えた。
議員さんに送った一通の手紙から、連絡をとることがはじまり、そして『講演会をしてくれませんか』という依頼が舞い込んできた。出不精な私が生きていく中で行くことはなかったであろう県に飛行機に乗って赴き、ホールで開催された講演会に【講師】として招待されてマイク越しに話したのだ。
その景色を私はありありと覚えている。 決して話すのが得意な私ではないけれど、ずらりと並ぶお客さんを前に頭で必死に言葉を組み立てて、気持ちを紡いで、口を開いた。
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これは、一通の手紙がなければ実現しなかったことだ。手紙…を書くにはエネルギーを使う。便箋を買い、ボールペンを持ち、机に向かって綴る言葉は、SNSやメールで綴る言葉に比べてちょっとハードルが高くなる。けれどその分重みも増す。
けれどその分違う世界に連れてってくれるチケットになってくれる、まだ見ぬ世界を私に見せてくれるかもしれない。そして、それは自分のためだけではない。
私は好きな本の作者や好きな芸能人に対してもよく手紙を書く。これは別になにか見返りを求めているのではなく、ただ単に伝えたいと思うからだ。
SNSでも簡単にメッセージを送れる時代だけれど、感動や応援の気持ちは肉筆で時間と労力を使ったもので届けたい。そうすることで手紙を受け取った側の心に新鮮な喜びを届けられるかもしれないから。
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最近私は英語で手紙を書いてる。私は英語の成績が良くない。学生の頃はいつも平均点から少し下。
だけど先日New York Timesの記者さんが『スマホからダムフォン(ガラケー)にした体験』の記事を書いているのをみた。これは私にも通じることがあり、恐れ多くも翻訳ツールと電子辞書をフル稼働でその記者さんにメールをしてみたところ、お返事が来たのだ。
それが嬉しくて、メールではなく今度は英語で手紙を書いてみた、自分の書いた本を添えて。自分が触れた便箋、そしてその上に書いた文字が、海を渡り、生まれた国が違う人の手に渡る。それはなんだかとても不思議で、くすぐったく、嬉しい。
たくさんの手紙が来るだろうから過度に期待してはいけない…とは思うけれど、この一通の手紙がまた私の視界を広げてくれるのではないかと思うと胸の高鳴りを抑えられないのだ。