「何のために、やるの?」

幼い時も、大人になってからも、これから始めようと思っている趣味や勉強の話を母親にすると、いつもこう返される。

◎          ◎

前職時代もそうだった。
大人になっても、プライベートで無邪気に何かを新しく始めようとすると、周りの同僚や上司たちは、「何のため?」と必ず聞いてくる。
そのたび、私はみんな、そんなに何でもかんでも理由がないと動けないのか……と内心思ったりした。

そんな環境で育ってきたからか、私は自己保身のためか、自分で新しく何かを始めようと思った時、それを周りの人に共有するということはしてこなかった。

勉強でも運動でもなんでも、自分で始めたければ、自分だけでこっそり始めて、一人でしれっと進めればいい。継続して芽(結果)が出てきたら、調子の良い時だけ、周りの人は「すごいね」「おめでとう」と言って寄ってくるのだから。

20年以上、そんな風に思って生きてきた。

◎          ◎

20代後半で私は転職して、生まれ育った東京や大企業を離れ、単身で地方に転職した。

すると、驚いたのは、転職先の地方の現場社員の方々は、皆「自分の今ハマってることは、チョコレートの研究で、先日はチョコレート検定を受けて…」など、大なり小なり、本業とはまるで無関係な私生活の推し活や、これから始めてみたいアクティビティなどを口々に共有しあっているのだ。

そんな日常の共有に対し、周りの同僚は同僚で、「いいじゃん!面白そう」「自分もやってみたい。一緒にやろう!」など、誰かの小さな最初の一歩を後押しし、時に自分も一緒になって混じり楽しもうとしたりする。

私の転職した人口20万人規模の地方の町には、そんな、誰かの最初の一歩を後押しし、応援し合う文化や循環で満たされていた。

「何のため?」「目的は?」

なんて、地方に来てからプライベートで聞かれたことがない。

◎          ◎

私は、最近地方に来て5年目になる。
社会的成功をみすえて(もしくは無自覚のまま)目的思考になりすぎると、自分の意思に気づかない。

結果、仕事という会社から与えられた業務以外、自分から何も始められない。目の前のことや自分の人生になかなか意義を見出せず、挑戦している人達や楽しそうに生きている人達を見て、内心嫉妬したりする。

そんなに誰かに嫉妬して、「何のため?」と悪気なく、低欲望な人間を再生産させていくような大人に、私はなりたくない。

私は自分の意思に気付き、失敗してもいいので挑戦できる、始められる人でありたい。
今の時代、すべての仕事ややりたいことに、最初から社会的ニーズがあるかと言われれば、そうとは限らない。

今は市場にニーズがなくても、複数スキルを掛け合わせたり、自分の「やりたい」意思を軸に、市場自体を育てたりして成功する人もいる。

こんなに変化の激しい、見通しの効かない時代なのだから、たまの一つや二つ、趣味でもなんでも自分のやりたいことやプライベートで極めたいことがあっていいのではないか?と思ってしまう。

◎          ◎

地方に転職して、たまに東京に戻っても自分がやっているのは、仕事や社会的成功に直結しなさそうな、小さな趣味や新しくやってみたいことを見つけ、友人など周りの人に共有することだ。

そして、もし友人も自分のやりたいことを話してくれたら、私は共感するし応援しようと思う。

自分らしい、生き生きとした、かっこいい大人を増やすために