「かわいい」って、最も主観的な価値観だと思う。
個人的には、「かわいい」に対して、特別な感情を抱いていない。

わたしの顔はかなりかわいくない。
男性からはもちろん、女性からも「かわいい」と言われたことがほとんどない人生である。街中で声をかけられたこともナンパされたことも全くない。顔の造形に魅力がないということはほぼ確実だろう。

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自分の顔がかわいくないということに気が付いたのは高校生のときだ。
女子校だったということもあって、周りの子たちはとてもかわいかった。Instagramが流行り出したのも確かその頃で、思い出作りに勤しむ彼女らに混ざって撮った写真を見返すと、自分の顔の造形はお世辞にも同等のかわいさとは思えなかった。

間違いなく、小・中学生時代共にわたしの顔はかわいくなかったはずなのだが、世界の解像度が低いまま小学生、中学生と通り過ていたようで、自分のことを客観的に見る、考えるということができていなかったのだう。高校生になるまで気が付かなかったのだから。

だがその頃、「かわいくない」や「ブス」と言って直接傷つけてくるような人いなかった。また、「あの子の方がかわいい」や「あの子は誰々よりかわいい」など、かわいいという価値観で物事を評価する人もいなかった。
そのように形成された価値観の中で生きていたからか、顔のかわいさで自他を評価するという価値観が生まれなかった。そして、自分がかわいくないということに気付いたからといって、そこに対してプラスもマイナスも、感情が大きく揺さぶられることはなかった。

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かつて、「ギリ抱ける顔」という評価をいただいたことがある。
本当にくだらない。だからなんだ。
その上、現に今、煩悩に負けてかわいくない女を抱いてることを、”ギリギリ”などとこじつけて自分を正当化しようとしているだけにしか見えない。あまりにも滑稽だ。
そのような価値観で生きている人は好きじゃなかった。それだけには留まらず、なんとなく合わないと感じる部分が湧き出てきて会わなくなったのが懐かしい。

でも、やはりかわいくなりたいという思いはある。
”整形するなら鼻がやりたいな〜”、”その次は目かな〜”などと考えることだってある。しかし結局はその程度で、実際に手をかけたのは重たいひとえまぶたを、ふたえにするためのマッサージと歯列矯正のみである。
整形が魔法ではないのと同じで、歯列矯正をしたからと言ってものすごくかわいくなるということはない。ふたえのマッサージも、重たいまぶたに二重線が入っただけで、常に眠そうな目にしか見えないのが現状である。

だが、これがわたしなのだ。かわいいか否かに依拠するものではない。わたしがわたしとして在るだけなのである。

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ちなみに、わたしが自分の中で「かわいい」という評価をしているのは”声”である。
学生時代、暇電を募集するサイト通話を繰り返していた頃によく言われていた。よく、というよりも必ず、言われていたと思う。だから、自分の声をかわいいと評価しているだけであって、そこに対して喜びや嬉しさはあまりないのが実際のところだ。どうせ誰しもが「声かわいいね」を常套句にしていた可能性の方が高いと思っている

面白いのが、わたしのパートナーは、わたしの顔を「かわいい」と言うことだ。何度も言ってくれる上に、何よりもその時の表情が本心を物語っているように見えるし、わたしもそうであってほしいと思う。だが、声について「かわいい」とは一言も言われたことがない。

正直、もうそれでいい。いや、それがいい。
「かわいい」はそれぞれの主観的な価値観なのだから。