日本にいると世界は平和である、という錯覚に陥る。
今、世界中から注目を浴びているものと言えば「パリオリンピック」ではないだろうか。
4年に1度のスポーツの祭典。アスリートであれば「オリンピック出場」などを目標に掲げ、アスリート人生を捧げる人も少なくないだろう。
その情熱や努力の結果など、様々なドラマが垣間見えるオリンピックでは、日本をはじめ、多くの国の人々がテレビの前で応援し、喜び、時には悔しがり、選手と共に闘っているのではないだろうか。

その一方で今、同じ世界では紛争・戦争が起きている国も存在する。
2023年10月からハマスの奇襲攻撃を受けたイスラエルが反撃を続けるパレスチナ・ガザ地区。多くの罪なき民が今でも空爆の被害に遭い、国連によると死者数は今年5月時点で3万5千人を超え、がれきに埋もれたままの遺体は推定1万人にものぼるという。

このような悲惨な状況が起こっているにもかかわらず、多くの人々は“悲惨な現実”よりも
“幸福な現実”へ目を向けがちだ。ではなぜそのような状況が生まれるのか。
遠い国の話だから?自分に爆撃が降るわけではないから?
おそらく両方の理由が当てはまり、他にも様々な理由が挙げられるだろう。だが、どんな建前の理由を並べてたとしても、根本にあるのは「自分には関係のないことだから」ではないだろうか。

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確かに日本からすると遠い国の話であり、悲惨な光景が目の前で起こるわけではない。
その分自分事として捉えることは難しい。
だが、今回のオリンピック会場であるフランス・パリも遠い国の話だ。それにもかかわらず、みなが一丸となって喜びや悔しさを繰り広げる。果たして、この違いはどこにあるのだろうか。メディアで報道される数の違いなのか、日本が出場しているからだろうか。

だがオリンピック1つ取っても、メダルを数多く獲得できる国はほとんどが先進国で、先進国同士で獲得数の勝負をする、台湾は「チャイニーズタイペイ」として出場、性別は男女というくくりのみでの試合しかない、など様々な問題もある。しかし、それを話題にする人々はいったいどれぐらいいるのだろうか。

オリンピックについての話を恩師としている時、恩師は「一方では多額の資金をかけ、豪華な演出などで開催されているオリンピック、一方は何万と死者が出ており、パラレルワールドなのかと感じる」と述べていた。
このような世界情勢の話や政治の話をすると「自分は政治に興味がない」という意見もあるだろう。だがそれは裏を返せば「自分は幸せだから、苦しんでいる人達なんて別にどうでもいい」という意味ではないだろうか。

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日本を含め、オリンピックに出場できている先進国はこの「特権」を忘れている。むしろ、気づいておらず、あたかもこの特権を持っている状態が普通だと錯覚し生活している。
今回のパリオリンピックでは「平等」を1つのテーマで掲げていると思うが、果たして本当に平等は実現されているのだろうか。
そして、オリンピックといえば「平和の祭典」でもあるが、果たしてオリンピックを開催できるほど「平和な世界」であるのだろうか。

誰が、どこの国がメダルを獲るか、そこに着目することが悪いとは言わない。だが、そのことよりも、もっと着目しなければいけないことがあると一瞬でも考える必要があるのではないだろうか。
そしてそこに着目し、世界を変えることができるのは「特権」を持っている日本をはじめとする先進国である。そう考えると、遠い世界で起こっている戦争・紛争は他人事だと言えるだろうか。この特権をどのように扱うかを決めるのは1人1人の意志、考え方であると私は考える。

4年に1度の大きな祭典を機に私たちはもっと考えなければいけないことがあると、認識しなければいけないのではないだろうか。