中学生くらいになると、義務教育が何のためにあるのか疑問に思うことがあると思う。
私もそう思った1人だ。計算式や方法、物質の体積や社会の歴史を知ったところで、これから自分にどう関わっていくのかまったく予想できなかった。義務教育のなかで、興味のある勉強はほんの一握り。何がおもしろいのかわからないけれど、ただやれと言われて問題を解いていた。
授業も、学生の仕事だからと問答無用で椅子に座って学び続けた。将来のビジョンなんてほとんど見えていない若者にとっては、テストで点数を取ることが目先の目標であり、学生としての長い目標だとも感じていた。点数を取るために、黙々とノートを取り、塾に通い、やって来る定期テストに全てをぶつけた。そんな学生生活を送り、気がつけば進路を考える時期にいた。
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受験、進学、就職。今学んでいる勉強たちが何につながっているのかはわからない。ただ、大人たちが将来のためだから、と教えられることをひたすら覚えた時期。すべてとは言わないが、つながっていたのだと実感したのは大人になってからだった。
社会人になってしばらくたったとき、ふいに考えてみたことがある。どうしてもキャリアに自信が持てず、ここまでの自分のあしあと、というか、道のりを振り返ってみた。自分の意思で進路を決め、受験を乗り越えてきた私。大学は仕事に直結する専門分野を選んだ。専門性が高い分野だったため、外から見ると難しい印象があるらしい。
しかし、私にとってはそこまで難しい分野だとは思わなかった。大学までは、誰かに言われるがまま勉強に励んだ。もちろん自分が決めた目標を遂行することもあったが、概ね誰かに言われて勉強を続けていたという方が正しい。
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社会に出ると、勉強したことは仕事に応用するようになる。ここまで学んだことが初めて身になっていると感じた瞬間だった。ちょっとした計算、起こった現象を考えるための根拠、誰かに自分の意見を伝えるための言葉。
すべて義務教育から学んできたことがなければ出来ていなかっただろう。もっとも、教育では考えることが優先されるので、どうしても伝えられないもどかしさにぶつかることはある。とはいえ、迷っている、悩んでいると伝えられるのは学びが生かされているからではないだろうか。
私は、学ぶことに対して嫌悪感を抱いたことはない。むしろ将来の夢が決まっていたので、積極的に学ぼうとしたほうだった。新しく情報や知識をインプットするのは楽しかったので、学校の勉強だけでなく雑学も積極的に取り入れるようになっていた。
今でも、どちらかというと雑学のほうが役に立っているのではないかと思うことはある。雑談に花を咲かせたり、妙に納得できるのは雑学だ。ただ、雑学を雑学として取り入れるには、義務教育やそもそもを理解しているという前提が必要になってくる。ここにも学びがつながっている瞬間があるのだと発見があった。
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小学校にあがり、突然あらわれた勉強という存在。言われるがままに授業を受け、宿題をこなし、ときには学びに手をつけない日もあった。将来のことなど何ひとつ見えるわけもなく、中学生になれば何のために勉強をしているのかわからなくなった。
やっていることが無意味なのではないか、将来のビジョンを見失う瞬間が幾度もあっただろう。それでも学び続け、大学生活を経て社会人となった私は、初めてここまで学び続けた勉強がつながっていたのだと知る。当たり前に仕事をこなしているが、仕事をこなすためには今までの勉強が身になっていないと当たり前にできないのだ。私の学びの先には何がつながっているのかまったくわからなかった学生時代。今言えるのは、学びの先は仕事が当たり前にできることだ。
きっと考えたことがない人がほとんどだろう。こういうテーマを掲げたこともないと思う。ここまで読んでみても、だからなんだ、それがどうした、と思う人が多いはずだ。学校で学んだことが当たり前を作っているだなんて、ピンと来なくていいと思う。
それだけ自分に馴染んでいるスキルだということであり、あなたがちゃんと学びを生かしている証拠だ。
今、学校で学んでいることが何にもつながっていないと感じているのならば、出来て当たり前のことに目を向けて欲しい。これらは話せなければできなかったことであり、文字が書けなければできなかったことだ。どんな小さなことでも、確実に得るものがあると知ったとき、見方が変わってくるだろう。