東京。
名著「あのこは貴族」には、ある人にとっては憧れの象徴であり、別の人にとっては底なしに居心地のよい沼であったり、世界で唯一の安全地帯だったりという描写がある。
正直、わたしはあの中のどの人物にも共感しきれないところがあった。
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所沢で生まれ育ったわたしにとって、東京はもともとただの隣の県だった。県じゃないが。田無だって、新宿だって、瑞穂だって、「東京都」だ。秋津なんて、東京と埼玉、どっちにもあるし。ただちょっと中心部が栄えているお隣さん。父が毎日働きに行くところ。祖父母に会いに行って、おいしいものが食べられるところ。時々友達と池袋のスイパラに行ったり、家族で大型書店をはしごしたりするところ。それ以外に東京に魅力を感じたことがなかった。
所沢の公立中学校でぬくぬく勉強したり、本を読んだり、たまに友達とおしゃべりしたりとのんびり生きていたわたしは何の因果か、オーストラリアのシドニーに移住することになった。平成の公立中学校の二年生が勉強しえた英語が、その当時のわたしの英語力の全てだった。そうしてここシドニーで四苦八苦しながら過ごし、一年目の12月に一時帰国した、その時だった。わたしの中で、「東京」の定義が変わりはじめたのが。
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羽田に降り立って、目を覆う日本語の電光掲示板、張り紙、広告、標識、全てに大げさでなく涙が出そうになった。電車は運悪くちょうど帰宅ラッシュ時。ボストンバッグやキャリーを人にぶつけないように運びながら、聞こえてくる電車のアナウンスに、人々のざわめきに、心から安堵した。
日本語だ……!
気が遠くなりそうな人の多さも、隅々まできれいな電車も、広告の色使いも、全てに日本を感じた。食品のパッケージにありがちな無駄に(と言いたくなるくらい)多くてこまごました注意書きも、天井の低さも、高頻度で現れる自動販売機も、それに反比例するゴミ箱の少なさも、何もかもが日本だった。
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そして、このころからわたしの中で「日本」と「東京」が似た意味を持ち始めた。わたしが心を休められる場所。果てしなく便利で、何もかもが行き届いていて、そこに人々のあたたかさを感じられる場所。会話をするときに緊張の汗を書かなくていい場所。ある意味でわたしが余所者として生きる場所。思えばわたしは生まれてこの方、余所者でない瞬間など一度もなかったように思う。しかしわたしは、それに居心地の良さを感じるタイプだった。
一年に一度帰国するたび、わたしはなぜシドニーで暮らし続けているのだろうと、罰当たりにも思ってしまう。こんなに居心地がよくて、シドニーにあるものもないものもなんでもあって、大好きな人たちもいて、一番幸せを感じられる場所。いつしかわたしは、「東京」に憧憬と郷愁を同時に感じるようになった。
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帰ってくるたび毎回感じる人の多さは、気のせいでもシドニーのすかすかさのせいでも(あるかもしれないが)、本当の意味では、ない。それは日本人が何年たっても気が付かない、日本の経済規模の大きさ・偉大さと、何度危機に見舞われても立ち直ってきた強さを示している、と思う。
日本はおわりだなんだと叫ぶ人たちの中には、他の国を全く知らない人もいるという。どうか一年間、アリススプリングスかタスマニアで生活してみてから言ってほしい。
しかしそういう発言をする人の中には本気で日本を愛していて、全力で愛する日本のこれからを心配する人もいる。心からふるさとを愛する身として、わたしもよく考える。わたしたちは日本のこれからのために何ができるだろう。その答えの一部が、今わたしが海を越えた反対側で、多種多様な国籍のクラスメートたちと、英語で勉強し続けている理由なのかも知れない。