「かわいい」。
この4文字が私たちにもたらす影響は簡単には無視できないと思う。私たちは日頃、色んな人と接しながら、日常生活を送っている。無数の視線が飛び交う中に身を置く瞬間だってある。時にはひどい言葉を投げかけてくる人もいれば、胸が熱くなるような温かい言葉をそっとかけてくれる人もいる。はたまた、そのどちらでもない人もいて。
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私たちは個々なのだけれど、やはり社会の一員として人からプラスのイメージを抱かれることを誰しも求めがちだと思う。でも、プラスの言葉を述べるのは、どこか恥じらいがあったりして、なかなかハードルが高いことだってあるだろう。まさに、そんな時こそ、「かわいい」は、ちょうど良い言葉のうちの1つではないかと私は思っている。
私は、「かわいい」と言われて素直に嬉しい。
「かわいい」は人と人をそっとつなぐ接着剤のように感じる。私は「かわいい」と言われると、ほんの少し自己肯定感が増す。「かわいい」とあからさまに言われなくても、年上の人から「苗字+ちゃん」、「下の名前+ちゃん」と「ちゃん」付けで呼ばれると、なんだか可愛がってもらっているように感じ、途端に嬉しくなる。
しかし、だんだんと年齢を重ねるにつれ、この「ちゃん」と呼ばれることにやや複雑な思いを抱くようになった。「ちゃん」はどこか可愛らしいイメージがあるが、子供っぽいイメージもあると感じる。
「ちゃん」と呼ばれると、やっぱり私はまだ幼いのかなと思ってしまう。私の中では「女の子」を呼ぶ時に、よく「ちゃん」が用いられ、それがだんだん大人になるにつれて「さん」に変化していくイメージがある。私はいつまで「ちゃん」と呼んでもらえるのだろうか。「ちゃん」と呼ばれなくなる時は来るのだろうか。
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「かわいい」とよく似た表現で、「きれい」という言葉を思いつく。どちらも同じようなプラスの意味合いに感じ取れるが、両者を比較した時に、個人的には「きれい」の方が、やや大人っぽい印象を受ける。「かわいい」と「きれい」の違いは何だろうか。しぐさを例にとって考えてみると、例えば、「おはしの使い方がかわいい。」と言われると、少しおぼつかない印象を受ける。一方、「おはしの使い方がきれい。」と言われると、「上品」という印象を受ける。やはり、「かわいい」には、どこか「幼い」という意味合いが含まれているのだろうか。
「かわいい」という言葉は接着剤のようだと既に述べたが、私は日常生活のふとした場面で「かわいい」という言葉を口にしている。友人との会話で言葉選びに困った時などに、深い意味もなく「かわいい」と言ったり、お店の売り物に対して、「かわいい」と言ったり。
一見、普通の事柄でも、それを普通に捉えてしまうと間がもたないというか、味気ないというか、そんな思いがあって、なんとなく「かわいい」を発している場面がある。それだけ、「かわいい」は身近な表現であると、ひしひしと感じる。
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なにげなく「かわいい」と言うのは、若い年代特有なのだろうか。私が年齢を重ねたら、自分が「かわいい」と言うことも、言われることも減っていくのだろうか。それはわからないけれど、とりあえず、「ちゃん」と呼ばれて可愛がってもらえているうちは、それに甘えるのも悪くない。
そんな時も、いつかはなくなってしまうかもしれないから。たとえ、そのように可愛がってもらう場面がなくなったとしても、「かわいい」という概念は、いつまでも持ち続けたい。「かわいい」と思うだけで心がときめく。このときめきこそ、自分をより一層可愛くしてくれる源だと思う。