ぷつん。ぽろり、ぽろり。ぼろぼろぼろぼろ。明確に憶えている。
去年の5月30日、日曜日の朝11時だった。鏡のなかの私が号泣しはじめたのは。

涙が止まらない。しかし、なかなか助けを呼べなかった

糸が切れた音がしたのは2度目だった。
秋に聞こえた1度目はお酒でごまかせたのに、2度目はもう無理だったらしい。
あぁ……どうしよう。どうしよう?どうすればいい?
とても仕事に行ける状態ではないのは明らかだが、涙と嗚咽が止まらず呼吸するのがやっとで、「休みます」の5文字も言えないほどだった。
数十分は放心状態のまま、ただただ涙を流し続けていただろうか。ふと我に返り、「助けを呼ばないと」と思った。

しかし、私は人に甘えたことがなく、誰に、何を、どう、言えばいいのか分からなかった。
もちろん仕事でのわからないことや進捗の相談などはできるが、いわゆる自分自身のことでの相談は誰にもしたことがなかった。それは甘えであり、迷惑だからだ。
「自分のことは自分が一番知っている」「自分のことは自分でなんとかする」そういう意識で生きてきたのだ、29年間。
心から信頼している家族や友人はいるが、相談=甘えという考えを29年間も抱いてきたら、簡単には人に言えない。私のなかでは、そういうものなのだ。

ためらった末にかけた電話は3分で終り、心療内科を受診することになった。

他人から見たら十分やばい状態なのだが、謎なプライドを保つほどの“元気”と、30分以上泣き続ける“体力”があるのが不思議だ、と冷静な自分もいた。
「助けってどうやって呼ぶんだろう」とかぼんやり考えていた結果、現実的に来てくれる距離に住んでいる幼馴染と兄に連絡したときには泣き始めて45分が経っていた。
それぞれたった3分の電話。それが人生で初めて他人を頼った時だった。
45分も葛藤したくせに、とっても呆気なかった。一瞬で終わった。

2日後、兄が探してくれた心療内科での初診。私はそこでも泣きながら「涙が止まらない」と言っていた。「1か月休みましょう」と医者に言われ、「1か月も……何すればいいんですか!今まで仕事しかしてきてない……」と泣きながら訴えていた。
涙が止まらないから病院に来ているのに何を言っているのかと、兄は内心呆れていたらしい。病名は適応障害だった。

私の仕事はテレビのディレクターだ。AD時代から週に1回は徹夜をして、生放送の情報番組をやっていた。涙が止まらなくなった日の3日前まで“ふつうに”仕事をしていた。
穴は開けていない。自分でいうのもなんだが、めちゃくちゃ一生懸命で真面目にやっていた。それはもう、阿呆みたいにやっていた。
テレビが大好きでディレクターになったのだ。数えきれないほどの理不尽にも耐え、意味不明な罵詈雑言も浴びせられ、女だと舐められながら。一昨年にはスクープ賞を受賞し、上司に多少モノが言えるくらいになってきていたときだった。順風満帆だった私のキャリアが閉じた瞬間だった。
真面目、それが私の取り柄だと思っていた。勉強も仕事も一生懸命に努力を重ね、なんとか結果を出してきた。そうやってコツコツ生きてきたのに。ガラガラと崩れていった。

一度復職したが、また休職している。本音は誰かに甘え倒したいのかもしれない。

これまでの私ってなんだったの。みんな言う「今はゆっくり休むときなんだよ」ってなに?「8割の力でいいんだよ」ってなに?
そういう思いがぐるぐるしていたのだろう、去年の9月に一度復職したものの、年末からまた休職している。

家族や幼馴染、上司、医者、カウンセラー、様々な人を頼りになんとか死んでいないが、本音は切に誰かに甘え倒したいのかもしれない。その扉を開けたとき、私は本当の意味で持ち直すのかもしれない。
涙が止まらなくなったあの日、初めて誰かを頼ったと思ったが、起きた物事を適切に処理しただけに過ぎないのかも?などと考えているうちは、社会復帰はまだ遠そうだ(過去を振り返られるくらいには回復しつつあるともいえるが)。
きっと現状を抜け出すために一番必要なのが、“だれかを切実に頼った”という経験なのだろう。それが私に足りないものなんだな、だなんて真面目なことを考えている。