私は夜、電気を消して静寂に浮かんでいる。日常は明るく過ぎていたのに、ふと夜に溺れていくのは何故だろうか。病み期とは少し違うであろうそれが襲いかかってくる感覚を理解してくれる人は少なくないのではないかと思っている。私自身の勝手な感覚なので取り留めのない表現にはなるが、眠れない夜について少し考えてみたい。

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自分が満ちていると感じることで満ち足りなくなっていくという矛盾でもあるし、ふとした瞬間に気づいてしまう物事の二面性に、半ば諦めとして触れることもある。夜に溺れるのと夜に沈んでいくのはどこか違う感覚であって、溺れる時には自分が抵抗する気力と正論をもちあわせている。これは世にいう焦躁感や自己嫌悪とうやつだと思う。反対に沈んでいくというのは、身体を委ねてしまってもいいかなと思えるほどの優しい感覚なのだ。私は根拠の無い不安という感情がこれに近いと思う。観音菩薩様が説いたように人間やこの世のものは全て「空」らしい。自分の精神、肉体、脳、思考に至るまでが、これこそが自分だという存在を見つけられないのだそう。

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つまり、自分を自分だと認識することで人間は自分を形成していて、自分を認識しなくなれば人は本物の空になってしまうのだそうだ。曰く、真実を知ろうとする限り本当の空になることは無いのだそうだが、最近では誰のためか分からない取り繕いをしている人が多く見て取れる。私も少なからずそのうちの一人なのだろうが。みんなが皆周りと一緒だからという理由で、同じ動作や思考をコピーしている。私自身、空の話を知ってからそうはなるまいと周りの考えを見ることはやめ、周りと同じような進路や無難な将来を捨てようと行動しているが、こんなことをしていても飛び込んだ先の世界にはまた別のスタンダードが存在していて普通はどこに行っても逃れられないものなのかと困惑してしまう。だから、ふと気を抜けばすぐに夜に沈んでしまう。自分は周りよりよっぽど空なのではないかと苦しくなってしまうのかもしれない。

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でもこれもまた一興、そう考えることは出来ないか。存在は変化をし続けているだけで実は終わりも始まりもないのだとか。きっと何かを取り繕っているのは他でもない自分のためなのだろう。自分はこの状態で存在していると認識しているために、理想の存在に近づくため取り繕っている。夜に沈んだ時に感じる、暗闇と一体化してしまうかもしれないという感覚は、実は空になるというところから全く遠いものなのだ。消えてしまうなら取り繕いも演技も必要無くなると考えられるかもしれないがまた同時に、そうなるために行動する覚悟がないことになる。覚悟出来ないという物が残っているから空になれないのであって、それを知らずに、覚悟はできないという物体だけを自分自身の存在に置いてしまうから無気力な存在が生まれてしまうのだろう。分かりにくい表現かもしれないが人は皆、潜在意識では強く存在していたいと思っていて空を恐れているのだと思う。

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満ち足りる感覚がいつまでも無いのは、きっと私たちが元から器の形をしていないからなのだろう。平面に水を貯めることが出来ないように満ちようと思うことはそれ自体が大きな矛盾なのかもしれない。自分を取り繕って泣いたように笑ってしまうのは、空が遠ざかってしまう自分の矛盾を哀れんでしまうからだ。夜に沈みも溺れもせず、ただ浮かんでいられたらどれだけ心地いいか考えてしまう。人は考える葦ともいうらしいから今夜もまた考えてしまうのだろう。これはきっと空を遠ざけるために、自分の存在を守るために当然の脳の営みなのだろう。なんて矛盾した存在なのだろうか。でもそう考えれば自分がどうしようもないくらい愛おしく思えるかもしれない。