小学生の頃、学校でよく言われた。「○○は字が上手だよね!お母さんお習字の先生だもんね!」
中学生の頃、吹奏楽部の活動や合唱コンクールの伴奏をする時に言われた。「そりゃ上手だよね、生まれつき絶対音感あるもんね!」
高校生の頃は、「それだけセンスがあったら上手いに決まってる。羨ましい」と言われていた。
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小学校も中学校も高校の頃も、自分が一番だと思ったことなんてない。頑張ったと言えるお習字も音楽も、自分より上手でセンスのある人はたくさんいた。努力を惜しまない誠実な実力を持つ人もいれば、センスに任せて臨機応変な人もいたけど、それぞれをそれぞれの方向から尊敬していた。
大学に進学すると自分と比べ物にならない人がうじゃうじゃいた。追いつきたいと思うことすらおこがましいほど。上手な人たちに囲まれて、自分だけが下手くそな世界で、周りの人たちが自分の力を引き上げてくれるような気がした。本当に充実した時間だった。
でも大学を辞めて社会人になると、気づけばもとの環境に戻っていた。
「どうせできる」
「どうせ上手い」
「どうせ成功する」
きっとわたしへの信頼の言葉。でもわたしはひねくれ者だから、素直にその言葉を受け取れなかった。
憧れの先輩と同じ存在になるためにたくさんの参考音源を聴き、部活に活かせるよう独学で音楽の勉強をしたことをみんなは知らない。
講師を見返したい一心で、言葉通り誰よりも朝早くから誰よりも夜遅くまで楽器と共に生き、家族や友達との時間を犠牲にして、やっと指揮を任せてもらえるようになったことを、みんなは知らない。
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大学では優秀な人たちに囲まれて、今の自分じゃ遠く及ばない周りの学生についていけるようになりたくて、土日は一日中練習室にこもった。それでもついていけなかったけど、周りの人に恥をかかせたくない、師匠に恥をかかせたくないと、覚悟を決めて真っ直ぐに突き進んだことを、みんなは知らない。
習い事だって、バイトだって、恋愛だって、もっともっと青春したかった。部活に全てを捧げる学生生活は楽しかったけど、もっと友達と遊びたかった。憧れの大学生活は輝いていたけど、他の大学生のように空きコマで遊んだりしてみたかった。
大学生活は結局自ら幕を下ろして、地獄のような時間を過ごした時期もある。その時間は自暴自棄で、死んだように生き、多くの人を巻き込み、多くの友達を失った。
本当に本当にたくさんのことを犠牲にして、今の自分が作られている。
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努力って、見せるものじゃない。
自分が勝手にやっているだけだし、努力してると言いふらすのも格好悪い。言ってしまえば自己満足だと思う。だから周りからしてみれば知ったこっちゃないし、「どうせできる」で間違ってない。むしろ努力がバレていないという点では、「どうせできる」が正解だとすら思う。
それでも、わがままだけど、ひねくれ者だけど、思ってしまう。あなたの言う「どうせできる」の裏側に、どれだけの犠牲があったか知らないくせに。