はじめは1人のおじさんだったのだ。それが、2人、3人と増殖して、束になった。群になって、そびえたつ壁になったおじさん一人ひとりの表情は、もう見えない。
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上司は、機嫌が悪いと極端な言葉を吐く人だった。「全然」ダメとか、「全くもって」なってないとか、強い言葉と語気で否定して、舗装した道をズタズタにしていく人。
いっその事、的外れなことを怒鳴り散らしてくれた方が良かった。「また訳わかんないこと言ってら」と同僚と笑い合えたら、傷は浅く済んだと思う。もしくはあからさまな暴言を吐いてくれたら、然るべきところに相談していたはずだ。残念ながら上司はそのどちらでもなく、一線は越えず、しかし丁寧に、こちらのやる気を削ぐ人だった。
毎日ちょっとした切り傷を受けていると、心は麻痺していく。何を言われても、気にならなくなる。
代わりに、「なぜこの人はこの態度でいることを許されているんだろう」と疑問に思うようになる。「自分の機嫌は自分で取ろう」、こんな動きが広がって久しい。私だって泣きながら働いて、だけど涙は見せずに振る舞っている。
私より20年長く働いて、役職について、給料も高くて、みんなに敬語を使われている人が、どうしてこんな振る舞いを許されているんだろう。いや、逆か?20年長く働いて、役職について、給料も高くて、みんなに敬語を使われているから、許されているのかしら。
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「いいなぁ」
一度思ってしまうと、止められなかった。
会社を見渡せば、7割は男性だった。体感4割がおじさん。飲み会やらゴルフやら、共通の趣味があって楽しそうね。私だって若い女性が4割の会社だったら、そりゃ毎日笑顔で働けるわよ。
「いいなぁ」
私のメールは放置する人が、おじさんのメールには即レスしてる。恐怖政治がまかり通るなら、あれが目指すべき姿なの?
「いいなぁ」
帰り道にも思う。体もデカいし、駅を真っ直ぐ歩けそう。ホームの端っこで「突き飛ばされたらどうしよう」なんて考えないんだろうな。そりゃそうだ。通り魔だって弱い者しか狙わない。
「いいなぁ」
どこの組織を見ても、「上」にはおじさんばかりだ。血と汗と涙を流して掴んだ地位だろうが、数年前に社会に飛び出した身としては、天然物の特権階級にしか見えない。
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どんどんどんどん鬱憤が膨らみ、飛躍して、もはや何に憤っていたのか分からなくなった頃、自分のなかに「おじさん」という仮想敵がいることに気がついた。私が羨ましがっているのは、もはや冒頭の上司ではない。会社の関係者でもなく、「おじさん」という名の巨大な敵だ。ほしいものを全部持ってる、羨ましくて仕方がない存在。
まずい、と思った。実体を伴わない敵に怯え、遠ざけ、遠くで怒りをあらわにする姿は、客観的に見ると最悪なものに似ていたから。「女」という得体のしれないものを心底恨み、蔑み、暴論を吐く人たち。SNSで見かけてはブロックしている人と同じような存在に、ほとんど足を踏み入れていたと思う。
我に返れたのは、たった1人を鮮明に思い出したからだ。「今日は機嫌が悪かっただけだよ」と声をかけてくれた、親切なおじさんを思い出す。ただそれだけだった。
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自分の『はて?』が正当なのか、客観的に判断する術はない。何が事実で何が言いがかりか、自分の違和感が正しく不当であると、何をもって主張できるのだろうか。
情報の選択が委ねられた、歪もうと思えばいくらでも歪める世界。幻想に飲み込まれないために、意識的に世界を狭め、手の届く範囲で、目を見て話した人を思い浮かべて考えようと気付かされた恐怖体験だ。