人生初めての街コンに行き、趣味の話で盛り上がった人とそのまま食事をし、連絡先を交換した。歳が近く、優しい人だったが、とても小さなことで引っかかったまま、その人に対してネガティブになっている。

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街コンで出会ってせいぜい3日しか経たない相手、出会ったその1日を除けば、メッセージのやり取りしかしていない、そんな人。
お互い少し敬語を使わなくなってきた頃に、急になんの前触れもなく苗字で呼び捨てにされた。呼び方をどうするかという相談もなく、突然。

たったそれだけ、たったそれだけのことだけれど、彼と接するのが億劫になった。もちろん、苗字で呼び捨てにする男友達がゼロな訳では無い、それでも彼らは何度会ってもしばらくの間は敬称をつけていたし、今でもアダ名と呼び捨てとが入り混じってる人がほとんどだ。問題なのは、呼び捨てにするタイミングが距離感と見合ってないように思われるところである。こうやって自分との感覚のズレがひどく可視化されうると、普段なら流し見できそうな他のものも目についてしまうのだ。

「ちゃんと成人式行った?笑」

そんなメッセージ。

ちゃんと、とは? 笑、とは? 少しの違和感。
私は、もともとあまり出席するつもりがないうえに、当時の友人が留学中で成人式に出席できなかったので、成人式は出ないことにした。成人式当日は、高校の友達と、彼女の地元の成人式が終わったあとに、一緒にディナーを食べた。資金源がアルバイトの学生にしては少し背伸びをして予約した京都の湯豆腐、私にはそれがよかったのだ。

あんなふうに聞くのなら、「成人式はどんな感じだった?」なんて、出席している前提で無邪気に聞いてくれる方が無害だ、なんて思ってしまう。その話題が悪いわけではないから。
ただ、言葉の節々から自分とは相容れない価値観があるのではないかと邪推してしまうのだ。

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こういった違和感がどうしてものみこめなくて、遊びに行く話が進んでいたのに、ありきたりな嘘をついて、断って保留にしてしまった。申し訳ないながらも気持ちは少し楽になった気がする。

嘘も方便、が学生時代にあんなにできなかったのに、今は罪悪感を抱えるだけで多少はできるようになった。それはきっと大人になったからであるが、自分の友人関係や家族関係に、自信や、安心感を持てるようになったからだろう。昔よりも、他人に相談するようにもなったのもその表れである。こうやって保留を決断できたのも、「このタイミングで苗字呼び捨てはやっぱり距離の詰め方が合わないだろうね」という友人の意見をうけてのことである。

それでもその損切りのはやさというのは、少しさみしい性格をしているなと思う自分もいるのだ。
大人になるにつれ、リスクヘッジができるようになるし、小さな違和感を感じ取る能力も成長する。嘘のつき方や逃げ方もおぼえる。
でも、それに比例して、人と快適なコミュニケーションをとるために時間をかけることが少なくなった。たくさん喧嘩をして、意見を言って、粘ることがなくなっていった。時間をかけても、相手とそもそも相性がよくないから無駄打ちだったという可能性があることを知っているからだ。

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せっかく身につけたできる限り傷つかずに生きていける方法なのに、そんな根性でどうすると思う場面もあって、相変わらず生きるのは難しい。