何年も会っていなくて、何ヶ月も連絡を取っていなかったとしても、会えばその期間が嘘のように素でいられる、あっという間に時が過ぎる、そんな存在が誰しも一人、二人はいるのではないだろうか。
わたしにもいる。幼馴染のことだ。
親の都合で転校した先の学校にいたその子は、一番にわたしに話しかけてくれた。それ以来、わたしたちは幼少期を共に過ごすようになり、家族ぐるみでも仲良くしてもらっていた。そして「親友」という立場をわたしに与えてくれた。地元を離れて会うことが少なくなっても、社会人になって連絡する頻度がめっきり減っても、その立場が揺らぐことはなかった。もはや、「家族」と言っても過言ではないくらい、尊い存在だと思っている。
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いや、思っていた。最近まで。
事は一年ほど前に遡る。
社会人にもなると、これまで作り上げてきたコミュニティでの関わりや、自分自身の生活に占める部分が大きくなり、疎かになる部分も増えることだろう。かく言うわたしも、様々に優先順位をつけながら過ごさざるを得ないでいる。
「家族」と思っていても、「親友」であっても、毎日連絡を取りたいとは全く思わない。なんなら、わたしから連絡することなど、年に数回程度である。相手から連絡が来る頻度もそれと変わらない。
だからこそ、その数回のタイミングが最も重要だとわたしは思うのだ。何時間ものマシンガントークを交わす必要もない。わざわざビデオ通話を繋げて些細な表情の変化まで確認する必要もない。ただ、元気で過ごしているかな、よく食べてよく眠れているかな、それが分かれば十分なのだ。
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そのタイミングの一つが、誕生日であると考えている。年に一度必ずある、その子だけのイベントだ。
遠く離れていて直接お祝いすることは叶わないけれど、生存確認と、感謝と、祝福と。必ず伝えたいことばたちがある。おめでとう。出会ってくれてありがとう。これからも元気でいてね。幸せでいてね。またね。
わたしにとって、誕生日にことばを渡したいと思う人はごく少ない。それだけに、友人の誕生日はわたしにとって特別なものであった。
だから、期待してしまっていたのだ。毎年会えるわけでもない、連絡もほとんど取らない、でも、「親友」だから、誕生日くらいはメッセージだけでも一言あるのだろう、と。
昨年のわたしの誕生日、その子から連絡が来ることはなかった。数日後、あるいは数ヶ月後に、遅れてしまったなどの連絡が来ることもなかった。
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SNSは繋がっていたから、どうやら元気にしているらしいことは分かった。事故とか、大きな病気とかで大変な日々を過ごしているということではないらしい。
つまり、忘れていたのだろう。今も忘れているのだろう。
忘れていた、ということすら忘れられてしまうことほど悲しいことはない。その日から一年弱経った今でも、なんとなくわたしの中でしこりになったまま消えないでいる。
直接言うほどのことではないし、会ったらきっと今まで通りの二人だろう。そのくらいのことで、そう思うわたしもいる。でもなんだか、胸が締め付けられて、しこりが疼く。虚しさが暗闇に広がる。
もうすぐその子の誕生日がくる。そう思うと、うまく眠れない。その子のことを考える夜。