毒親という言葉が社会によく浸透した。言葉が浸透すると、大概気軽に使われるようになるもので、インターネットをみていると「え?そんなことで毒親認定?」みたいな内容のことも増えてきたように思う。でも当事者がセクハラだと思えばセクハラになるように、子ども側が親側に対して毒親だと思えば毒親なのだろう。

私の親は、私からしたら毒親ではないように思う……多分。多少の理不尽や嫌味の言葉は経験したし、経済的理由で諦めさせられたこともたくさんある。共働き家庭で一人の時間もかなり多かった。SNSで毒親エピソードを読んだ時に自分のことかと思ったことも少なくない。だからといって、自分の親が毒親だとは思えないのは、親への愛というのか、執着というのか。

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しかしハートフルなドラマで見るような仲睦まじい親子関係では一切ないのが、悲しい現実である。盆暮正月だからといってろくに帰らないし、非情な私は姉の結婚式にすら行かないとゴネたほどだ(無論、アホかと一蹴されたのち、参列したが)。共働きの親と十歳近く歳の離れた姉妹など、関係が希薄になるのは明らかであろう。以前投稿したエッセイにも書いたが、小中学生のころから自炊するほどに自立した幼少期を過ごしてきたのだ。親や姉と会話するよりも友人との会話の方がずっと気楽で自分らしくいられた。
気遣いや猫かぶりをしなければならないくらい、家族と私は、血を分けただけのただの他人なのだ。

この距離感の関係でこれまで育ち生きてきたことが健全なのか不健全なのかはわからない。私にはこの家族しか知らないし、幼い頃からある種ひとりで生きてこれたから培うことのできた生活力と、他者や社会との関わり方がある。ゆえに、ここに愛はあるのだ。

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でもそこでインターネットの海に流れてくる毒親エピソードを目にしては「自分もこうだったな」と思って親を少し恨めしく感じてしまうのは、かつて甘えることのできなかった幼い自分が寂しいという感情と共に頭をもたげてくるからなのだろうか。

あまり親に甘える――ここでいう甘えとは、怖い夢やホラー映画をみたときに一緒に寝たりだとか、部活動などを応援しにきてくれるだとか、わかりやすく愛情を感じることができるとか、そういった類のものである――ことのなかった自分はいわゆる常識や分別のある人に育った。「ちゃんとしてるね」「落ち着いてるね」が社会的評価である。ちゃらんぽらんだと言われるよりかは随分マシなのでいいのだが、できないことやわからないことに直面すると途端に目の前が真っ暗になってしまう。あまりにも一人が辛い時に、天井を見つめること以外の方法が思いつかない。どうやって人に頼ればいいのか、一切合切わからないのだ。

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二十歳一人暮らしを始めてから、親からよく連絡が来るようになった。LINEはおろかメールアドレスすら知らせてない私は仕事もあり電話に出られずにいると「親不孝だ」となじられた。当たり前にXやInstagramも知らせず、好きなものの話だってしないので「あんたの趣味も好きなものも友達関係も何も知らない」と泣かれてしまった。今までだってそうなのに、なんで教える必要があるのだ、と拒んでしまったが、こんなことを親に言われたら、通常はどう感じるんだろうか?「申し訳ない」だろうか?

世の中を見ると、親子で買い物や旅行にったり、好きなアーティストのライブに行ったりするのだという。私は数時間一緒に過ごすということすら想像ができない。これは、親が毒親であるという証なのか、私に家族愛というものがなさすぎるという証なのだろうか。

二十五歳の今でも家族との距離感がわからない私だ。