大人と子どもの間には境界線があると思っていた。けれど、それは違うのではないか?大人って何なんだ?私は、大人を疑い始めた日を明確に覚えている。

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高校の体育の授業前だった。少し肌寒かったので、半袖の上からジャージを着たいと担当の先生に相談すると、まだジャージを着ていい時期じゃないからだめだと言われた。時期ではなく、寒いと思った時に着るのは何故だめなのですか?と聞いてみた。すると、「ルールはルールだからだ」の一言で終わってしまった。

私はそれ以上何も言えなかった。そして、その光景はずっと私の心に残っている。当時はなんでこんなにあの時のことを覚えているのか、理由が分からなかった。傷ついたとかではなく、その理不尽さにモヤモヤしていた。今は言葉にして言える。私は学校の先生になり、子どもたちに伝える側になった。

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あの体育の先生は、自分の言葉を持ってなかった。「ルールはルールだ」の汎用的な言葉に逃げのだ。しっかりと1人の子どもの投げかけを受け止めてくれなかった。それがモヤモヤの原因だった。子どもたちからの投げかけに、大人はちゃんと自分の言葉で返しているだろうか?答えが、間違っているか、正しいかは分からない。それは大切だろうけれど、重要ではない。特に教育は全てに白黒つけられない答えがたくさんある。それは社会には多くの意見があるということだからだ。そして、多くの意見の中でどう生きていくかを、自分で考えていくことこそが、教育だからだ。

大切なのは、ある質問や意見に対して、自分はどう思うか、どう考えるかという姿勢である。模範解答のような答えではない。子どもは、姿勢を無意識に、見ている。言語化はしないが、何となく大人の姿勢を全身で嗅ぎ分けている。

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私は、あの時先生が、「ルールはルールだ」の後に目をそらしたのも覚えている。先生も分からなかったんだ。「分からない」と言う言葉では、恥ずかしいから逃げたんだ。分からなくてもいい。先生自身も理不尽を抱えているのであれば、それを伝えてほしい。だから「一緒に考えよう」と言ってほしい。そういう風に言ってくれる大人がたくさんいたらいい。そんな風潮が広まれば、もっと肩の力が抜けた、たくさんの素直な言葉が広がる社会になるんじゃないかな。

私も常に自分の言葉で子どもたちと話したい。「分からないことは、どんどん質問しよう」「失敗もどんどんしよう」と口では言うが、実際にはそれをよしとしない社会がある。教育現場でもそうだ。だから、大人がたくさん失敗して、「分からない!」と言う姿を子どもに見せたらいいんじゃないかな。結局、大人や先生だって、子どもと地続きなのだ。

さらに大人になればなるほど、知っていることが増える分、分からないことも比例して増えていく。分からないことがあれば、誰かに聞く、本を読む。そして、考えて、自分の言葉として持つ。そのストックが増えていく。他者とのやり取りで更新されていく。ストックが増えていく。それを循環させていく。その姿をそのまま子どもに見せていく。いや、社会に見せていく。そんな人こそが、本当の大人や先生じゃないかなあ。そう思うと大人と子どもの違いって、言葉をどれだけ持っているかだけなんじゃないかと思う。気持ちは同じなんだよな。

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私も大人として恥ずかしくないように、どんどん勇気をだして、失敗して、「分からない!」と思ったことを伝えていこうと思います。10年後のあなたたちが、もっともっと探求心を社会にむけられるように。