わたしの左手首には、たくさんの小さな傷跡がある。
全部自分でつけたものだ。いわゆるリストカットである。
最初は中学2年のとき。なんだか何もかもが嫌になって
はじめてリストカットをしたのは、中学2年生のときだ。
別にいじめられていたわけじゃないし、何か決定的に嫌なことがあったわけでもなかった。だけど、「優等生」であるがゆえのプレッシャーとか、いまいちクラスに馴染めていなかったこととか、高校受験に対する不安とか、色々なものが重なって、なんだか何もかもが嫌になってしまった。
その瞬間のことは、よく覚えていない。無意識のうちにカッターナイフを手に取り、無意識のうちに、手首を切った。
血が出なくて、あれ、と思った。
切れてないのかな。もう1回やってみようかな。
そう考えているうちに、じわ、と一筋、血が滲んだ。わたしはそれを見て、綺麗だ、と思った。真っ白な自分の肌に一筋浮かぶ赤色が、すごく綺麗だった。痛みはあまり感じなかった。
それ以来、わたしは何か嫌なことや辛いことがあると、手首を切るようになった。
馬鹿なことをしている、という自覚はあった。けれども、1度「切りたい」と思うと、頭の中がそれでいっぱいになった。
当然、親や友人から「手首、どうしたの?」と訊かれることもあった。なんか擦りむいちゃった、とか、野良猫に引っかかれた、とか、そんな下手くそな言い訳をしていた。
サロンのおねえさんは、手首の傷跡を見てどう思ったんだろう
手首に傷があることを、恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、傷跡はわたしのお守りだった。
だけど、20歳になって、はじめて全身脱毛の施術を受けたとき。
サロンのおねえさんが、腕に光を当てる際に「傷跡は避けて当てていきますね」と言った。そのときはじめて、恥ずかしい、と思った。
おねえさんはきっと、わたしの手首の傷跡を見て「このひと、リストカットしてたんだな」と気がついただろう。そのあと、どう思ったんだろう。特に何とも思わなかっただろうか。それとも、「うわ、メンヘラじゃん」と思っただろうか……。
それ以来、手首の傷が恥ずかしくなった。
なんで、手首みたいな見つかりやすいところに傷を作ってしまったんだろう。血が流れるのを見たいだけなら、もっとわかりにくいところを切ればよかったじゃないか。わざわざ手首を切ったってことは、結局わたしはただの「かまってちゃん」なんじゃないか……。
そんな考えが止まらなかった。それでもなかなかリストカットはやめられなくて、かれこれ9年間くらい、わたしはリストカットを続けた。
ここ1年くらいはやっていない。けれど、「完全にやめられた」とも思っていない。また「切りたい」という衝動がやって来れば、その衝動を100%抑えられる自信はない。
残ってしまった傷跡を見て、落ち込んでしまわないように
なんとかして、傷跡を隠せないかな、と考えた。リストバンドやファンデーションで隠したって、やっぱり脱毛サロンなどではバレてしまう。
いっそ傷跡の上からタトゥーでも入れようか、とも思ったけれど、痛そうだし、お金もかかるし、何より後悔したら嫌だし、と思ってやめた。
どうしたもんか、と手首の傷を眺めていたとき、ふと、「なんか流れ星みたいだな」と思った。肌の上を白く細く流れる傷跡が、一瞬だけ、夜空を流れる流れ星に見えた。
流れ星なんだと思ってしまおう。
そう心に決めた。
どうせ一生消えないなら、流れ星なんだと思ってしまった方がずっといい。
馬鹿なことをした、と後悔しながら生きるより、ずっと。
もちろん、リストカットなんてしなくて済むならしない方がいい。だけど手首を切るそのときは、わたしはたしかに「こうしないと生きていけない」と思っていた、思い込んでいた。
その思い込みは、誰に「おかしい」と言われたって解けるものではないことを、わたしは知っている。
だからせめて、残ってしまった傷跡を見て、落ち込んでしまわないようにしたい。
あとは、「流れ星」をこれ以上は増やさないようにも、したい。
プラネタリウムに大げさに映し出された星空を見て「うわ、なんか星も多すぎると気持ち悪いな」と思うのと同じで、流れ星も、やっぱり多すぎると気持ち悪いから。
こんなもんでいいよね。そう言いながら、指先でそっと流れ星をなぞる。そして、手首を切ることでしか癒されなかった数々の痛みを、わたしは乗り越えてきたんだ、と気づく。
だから、大丈夫。わたしは生きていける。
これからも、流れ星がそれを気づかせてくれるだろう。