かがみよかがみへのエッセイの投稿は、私にとって10年遅れてきた青春のようなものだった。
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趣味である執筆活動をする機会を戴き、他のかがみすとさんのエッセイを拝見する。時にはSNSで繋がり、意見を交換する。上手く書けたと思っていた自信作よりも、書いたかどうか忘れてしまったような古参物をお褒めいただくこともあり、新たな視線が生まれる。「ここの部分が好き」と、わざわざ引用して下さる方やまとめを作って下さる方もおり、自身の文章が多くの人に届いていることに嬉しさと誇りを感じる。通勤時にスマートフォンを開いて最も早く確認するのは新作の投稿で、もはや私の生活の一部だ。恋愛や友人とのプリクラ撮影といった一般的な青春時代を知らない私も、貴重な青春を手に入れることができた。このメディアを作って下さった伊藤編集長をはじめとしたスタッフさんには本当に感謝の気持ちでいっぱいである。
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私よりもずっと感情のこもった文章を書く人もいるし、知らなかった言語や文学的な揶揄を教わる機会もあり、これまで好きで得意だと思っていた執筆活動も、上には上がいることを知った。でも、それよりもずっと大きな、文学的才能では済まされない非常に大きな気付きを、このメディアを通して知ることとなった。
私は、人のために情(こころ)を動かしたことがない。
ざっと記事を見返すとキャリアに関するものが中心で、それも自分のことばかり書き綴っている。苦労の多い人生をくじけずひたむきに歩んできた証拠ではあるが、自分に関することばかりだった。私はあまりに自分のために生き過ぎていた。
他の方の記事には、恋愛や友人関係に関することが沢山綴られており、私には無縁だった青春をうらやましく想うこともあった。しかし今ではその妬ましさすら、利己的な本能の投影だと思っている。難病で食事が限られる娘のために料理をする父への感謝、震災で帰らぬ人となった友人の素晴らしさと故人への想い、リストカットをした自分の腕を汚いと泣く友人に対して抱いた自身の無力さ・・・・・・。その全てが、これまで三十余年もの人生の中で抱いたことのなかった心情だった。特に、中学生ながらリストカットをした友人のために傷跡の治し方を調べ尽くし、それが現在の仕事に結びついたという話は感動的で、幼いながらもここまで人を想うことのできる人がいたのかと感じた。
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そんな私も昨年、知人がきっかけで夜の街に出かけたことで少し変わることができた。そこにいた人々は、異なる人種のようでどこか共通する部分があった。私は日常品を自分で購入することができるけど、バッグとかジュエリーとか、そうした女性性を象徴する物を自分で購入することが女性性の失格を意味するようで恐ろしく感じてしまう。それを昼間の世界に生きる人に話すと、みな私の考えはおかしいと言う。そうしなくても自己肯定感を保てる人がうらやましかった。けれどもこの夜の街には同じ考えを持つ者が多数いて、そうした人は私と同じように虚無感を感じて生きる人が多かった。みんな、私と同じように本当は無償の愛を求めていた。だから、現在(いま)のことだけではなく、辛かったこと、大変だったこと、全部話して良いんだよと言って沢山話を聞いた。「貴女のように自分のこと背景から理解してくれる人はいないよ」と言われたことで、苦労して生きてきた分共感できる強さがあることを知った。私は人の役に立つことができた。
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今まで日の当たらないところでモジモジと生きてきた私のことだから、世にあふれている「若いうちに沢山恋愛しろ」とか、「友達は沢山作りなさい」とかは全く言うつもりはない。寧ろ、そうじゃない生き方も十分素敵だよと、根暗を代表して言ってやりたい。でも、もし貴女の周りに貴女が大切だと想う人がいたならば、10年後の女の子のために伝えたいことがある。
貴女が大切に思う人のことを、全力で愛し、向かい合って下さい。その人のために、心を動かして下さい。その時貴女は、とても大きく成長することができます。