10年前の私は青春真っ只中の女子高生だった。あのころの可愛いの流行や基準と、今の女子高生の可愛いの流行や基準も随分変わっただろうし、きっと10年後の女子高生の可愛いの流行や基準も変化しているだろう。何をどうあがいたって、流行りモノどころか価値観はかならず変化していく。

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と、ここまで書いていたところで世界で起きている惨事をニュースで見てしまった。多くの人があっという間に殺された。10年前も世界のどこかで行われていたものが、今では頻発している。では、10年後はどうなっているのだろうか?安全性だって、流動的だ。

すこし迷いをみせると置いていかれてしまうような社会の流れに身を任せるのは、大変だけれども正解の世界にいるようだし、なにより楽で、チルい(これももう死語か?)し、いいかもしれない。でも岩が川を流れていくうちに削られて丸い石になってしまうように、流されてばかりいると自分という核が削られ、気づけば小さくなってしまっているという恐怖を、いつも小脇に抱えていてほしいと思う。

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「自分らしく生きる」「ありのまま」「自分の好きなことを貫く」エトセトラな個人主義的な言葉も、私からすれば全く私に寄り添ってくれている言葉ではなくて、一時期流行った言葉で表すならば「個性という名前の無個性」を社会から与えられているような気持ちになる。仕事をバリバリこなす、節目の年が近付いたらキャリアアップのための転職をする、ある程度の年齢になったら結婚して子どもを産んで、スキマ時間で派遣のアルバイト。もちろん無理して結婚する必要なんてない。一人で生きていくつもりならマンションなり一軒家なりを買い自分の城を築く。みんなやっている「自分らしく生きる」生活。

能動的に振る舞っているようで実は受動的な生き方は、視野が狭くなってしまう。まるで度の合っていない眼鏡をかけているようで、自分の足元すらぼやけてみえなくなっているのではないだろうか?能動的に見せかけた受動的な行動は、いわば承認欲求がみたされている操り人形にすぎない。だから自分の足元が見えなくても構わずにいられる。自分自身は満たされているからだ。

少し話を戻す。さっき見たニュースのこと。殺された方々の中には、きっと今の女子高生がいて、10年前の女子高生もいて、10年後の女子高生もいた。生まれた地が違うだけでその女子たちと私たちが全く違うと言い切れるだろうか?自分自身は満たされているから関係ないと言い切れるだろうか?半径30センチより外の世界をぼやけた状態で見ているばかりでは、銃口を向けられていることさえ気づかないかもしれない。

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戦争はもはや、個人間のモノになってきている。だからこそ、個人からタネをなくしていけるものだとも思う。声を上げる。選挙権を手にすることができるほどに、私たちの声には意味がある。歴史を作ることもできる。ときおりSNSやニュースで目にするどこかの世界の怯えた女子たち。あの子たちを救える声を持っている。あなたが声を上げたとき、ぼやけた世界がはっきりと見えるだろう。

そして本当は私は10年後の女子たちへ「今」を生きるあなたたちは流行に乗ったり追いかけたりする必要はなく、それを作り上げる力があるのだよという話をしたかった。言い訳のようだが本当だ。でもとあるニュースを見たのでそうとも言っていられなくなった。しかしこのこともどこか感じていてほしいと思うので残しておく。10年後も平和であることを祈って。