「なんで最近の女の子はみんなフェミになってフェミフェミフェミフェミしてるんだろうね」
とは、私が毎週面談を受けている男性カウンセラーの言葉だ。竹村和子の著書『フェミニズム』についての会話の途中だった。
「この社会で生きてたらそうなるんですよ」
フェミになってフェミフェミフェミフェミしている若い女の子であるところの私は、笑いながらそう言った。実感としてそう思う。
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まず、私はフェミニスト、あるいはフェミニズムの略称であるフェミ、という言葉は嘲りのニュアンスがあって苦手だ。インターネットでも目にするたびに苦虫を噛み潰しているので、嫌いと言ったほうが正確だろう。
次に、フェミフェミフェミフェミしている、という言葉はどう聞いてもバカにしていると思ったので、その場で指摘はした。たった一度のやりとりだけで相手が考えを改めてくれるとは思わない。仕方ないこと、と書きかけて手を止めた。フェミフェミしている、と対面で言われることは決して仕方ないことではない。けれども他人の考えを一朝一夕に変えられないのは仕方ないと思う。どんなに腹立たしくても、対話の可能性を信じるならば、会話を少しずつ積み重ねていくしかないのだろう。この声を届ける耳を閉ざさせてはならない。
私はフェミニストである、とひとまずここに宣言しておく。少なくともそうありたいと思っている。男女平等には大賛成だし、女性、あるいは女性とみなされる人々やマイノリティへの暴力には大反対している。世間でどう呼ばれようと、ジェンダー・セクシュアリティへの差別に反対するフェミニストだ。
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今回のカウンセリングで、もうひとつ印象に残っているのは「そんなのいちいち気にしないで楽しく暮らせばいいのに」というカウンセラーの言葉だ。
フェミニストないしは性的マイノリティについての会話の中でだったと思う。
あまりに乱暴な言い分に驚いて、「それは乱暴すぎますよ」と軽蔑を隠すように笑いながら言った。愉快だろうと不愉快だろうと、私はどうしたって笑ってしまうのだった。
ともあれ、私は彼の言う「気にしなければいいのに」がどれほど的外れなのかを示すため、『ボールアンドチェイン』という南Q太の漫画をその場で引用して説明した。
『ボールアンドチェイン』の主人公けいとは、自分の性自認に揺らぎながら、男性の恋人との結婚を控えている。
話し合いを進める中で、ステレオタイプな女性らしさを押し付けて「妻」として縛りつけようとする恋人に対してけいとは憤りを覚える。恋人はけいとの女性らしさからかけ離れた外見に対して、タトゥーと髪の刈り上げに反対し、スカートの着用を勧めた上で、こう発言する。
「性自認に揺らいでるってけいとさんは言うけど僕にとってけいとさんはやっぱり女性だよ」
「なんでそんなに性別にこだわるの?自分は自分てだけじゃない?」
(南Q太『ボールアンドチェイン』マガジンハウス(2024) p.47)
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このセリフのどこに問題があるのか疑問に思う人もいるだろうから、恋人の態度や考えのどこに問題があるのかを解説していく。
まず、性自認に揺らいでいる現状こそがけいとの現実であり「自分」であるにも関わらず、「やっぱり女性だよ」と、ミスジェンダリングした性別を頭ごなしに押し付けていることだ。ここでの「やっぱり女性だよ」発言は、出生時に女として判別されたならば女としてその枠の中で死ぬまで生きろ、という社会的な圧力の表れとなっている。言い換えれば、はみ出すな、シスジェンダーたれ、という圧力だ。
次に、「なんでそんなに性別にこだわるの?」という質問は、周囲が当然のように飲み込めるジェンダー規範を飲み込めないお前が悪い、という暴力として機能する。
つまり、けいとの恋人は性別(性自認)にこだるほうが悪いというレッテルを貼りながら、同時に「女」「妻」という単なる性別の記号に誰よりも拘泥しているのだ。
このあとのコマで「傲慢なんだよそういう物言いは」とけいとは即座に怒りをあらわにする。(南Q太『ボールアンドチェイン』マガジンハウス(2024) p.47)
けいと自身のアイデンティティの根幹にまで食い込む違和感や不安、それらを嫌でも抱えつづける生き方を軽んじられたからだ。
私にはけいとのように瞬発的に激怒することが難しい。その場ではついヘラヘラしてしまう。それでも、物語のキャラクターの怒りに触れることで、自分が表すことができない怒りをあらわにしてくれたように感じる。
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あえて断言する。けいとの恋人や今回のカウンセラーも含めた大多数の人々が性別を、性規範を、性差別を、クィア差別を含めたシステムの矛盾や暴力を気にせずに過ごせるのは、彼らに特権があるからだ。気にせず楽しく過ごせばいいのにと簡単に言えるのは、マイノリティを抑圧する社会によって発生する苦しみを軽んじているからだ。 そして、私たちがフェミと呼ばれながらも怒るのは、このクソみたいな社会ではそうせずにいられないからだろう。