作業療法士になりたい、と志したのは高校1年生のとき。幼少期から、人の役に立つ仕事がしたくて、将来は絶対医療職と心に決めていた。高校卒業後は、夢を叶えるべく作業療法士の専門学校へと進学し、一人暮らしを始めた。ビルに囲まれた環境、ひとりも顔見知りのいない人間関係は、田舎者の私にとって何もかも初めて。馴染むのに苦労しながらも、充実感にあふれ、なんでも頑張れた。

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これだけ意気込んでいたのに、結果を言えば私は実習で挫折した。それは2年生の終わり、1ヶ月間におよぶ評価実習でのことだ。患者さんを担当させてもらう内容で「積極的に行動して吸収しよう!」と必死だったことを覚えている。優しい指導者と、きちんと時間内に終了してくれる病院。そんなありがたい環境とは裏腹に、私のこころはどんどん疲弊していった。「すべては、自分の考え方のせいー」。今、振り返ってもそう思う。一度指導されたことは完璧にこなそうと意識し、失敗すれば無力さに落胆し、周囲と比較しながらもっと積極的に行動しろと、こころの声が自分を責め立てた。習慣をなかなか変えられない私は、帰宅すれば納得いくまでレポートを書き、寝る間も惜しんで完璧に家事をこなした。

そんな日々が続いたある日、患者さんを目の前にしながら「こんなに苦しい思いをしてまで、自分がやりたかったことは何だったんだろう?」とふいに思った。すべてに興味が湧かず、息抜きすらままならない状態だった私に、すとんと下りてきた問いかけ。なにも返ってくることはなかった。

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その日の夜、いつものように洗濯機をまわしていた。ピーッと終了の合図。聞こえているのに、音の意味が理解できず立ち上がることすらできない。私は一点をぼーっと見つめ続けるだけ。脳が情報処理を諦めた瞬間だった。

助けてくれたのは両親だった。電話で察したふたりは、休日に田舎から来てくれた。うつろな私に、「もうやめてもいい」と言ってくれた。「精神を完全に病んでしまったら、なにもできないから」と。優しい言葉に包まれた私は、責め立てるこころの声と、逃げ出したい葛藤の狭間で悩んだ末に、退学の決意をした。途端に目の前が真っ暗になり、目指すものがなくなった絶望感に落とされた。

「ストレス耐性が低い。適応障害でしょう」。そう診断された私は、感情がなくなり理解力が低下していた。脳の働きが停止すれば、動く身体は意味をなさない。生きていても死んでいても同じだとさえ思った。精神疾患は、言葉で勉強した以上の閉塞感で、「うつになった」というよく耳にする一言に、どれだけの苦しみが集約されているのかを思い知った。とはいえ、まだ軽症だったのだろう。このままではいけないと分かり、自分で自分をリハビリしようと思い立った。

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手始めに、実習中の状況に沿って自分の気持ちを書き出す。考え方を可視化したうえで、クセを見極めた。完璧主義、他人との比較、白黒思考、過小評価。努力することを最優先に生きてきた自分が、こんなにもがんじがらめになっていたのかと気付いた。視野の狭まりを矯正するように、前向きな考え方を書き添えて意識に落とし込んでいった。

思考が安定してきたところで、お菓子やパン作り・手芸など、手を動かす作業を追加。五感に意識を集中させたり、うまくいかなくても自分を肯定したり、気持ちが上向くように常時つとめた。「動いているだけで偉い!」「スタートが違う他人と比較してもムダ!」ハードルを下げて、理由を前向きに変えて、自分を甘やかした。やがて、無意識に生まれる考えを、前向きな思考でカバーできるようになった私は、リハビリ目的で始めた趣味が高じ、パン屋で働き始めたのだった。

これは高い買い物だったのだろうか。学校へ行かせてくれた両親には、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。「挫折した」という言葉で、同情の目を向けられることもある。だけど、私には少しの後悔もない。結果だけみれば失った経験だけれど、実際は得られたものもたくさんあったから。経験は絶対に無駄ではないと、今ならわかる。どんな道を歩んできたのか、本人がどう感じたのか、集約された一言だけでなく、その背景や中身を思いやりたい。否定ではなく肯定してあげたい。そう考えられるようになったのも、歩みを止めたおかげだ。