今はちょうど、時代が変化しようとしている真っ最中だと思う。

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曲はその時代の価値観や男女の関係がよく表れていると言ったものだけど、最近はそれを実感することが多い。10年以上前は、「君は僕の・あなたは私のすべて」のような、永遠の愛を誓うドラマチックなラブソングが多かった気がする。

ちょっと戻って号が変わる頃には、日常のリアルな恋愛観を謳った曲がストリーミングの上位に並んだ。それらはどちらかというと、少し粘着質な人間が主人公になることが多かった。

それから少し経って、最近はなんだか自己肯定感が高い登場人物が曲中に溢れているように感じる。特に、女の子自身が自分を高めていく歌詞が多い気がするのは気のせいだろうか?
気のせいじゃないと嬉しい。私は今の、「女の子みんなで人生を楽しんでいこう!」って思わせてくれる音楽に、とっても救われている。

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もう最近はSNSによる生活の弊害だとかコミュニケーションの変化だとか、そんなトピックが取り上げられることが少なくなった気がする。それだけSNSは既に目新しい文化ではなくなったということだろう。

思い返せばX(旧Twitter)もInstagramも、10年以上前から存在している。その頃から「SNSで見えてる部分が全てではない」「SNSの情報は鵜呑みにせず、取捨選択が必要だ」もう耳にタコができるくらい何度も聞かされ、何度も思い直してきた。

だけど、どうしてだろう? たとえ10回頭に叩き込んでも、1回キラキラしたコンテンツを見ると途端にそれらの注意喚起は跡形もなく消えていく。ここでいうキラキラしたコンテンツとは、アイドルの輝いている瞬間、インフルエンサーの垢抜け記録、顔出ししてない一般人のセンスに溢れた生活etc…。ああ、あれだけ警鐘を鳴らしたはずなのにあっというまに問答無用で憧れてしまう。

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でも、私はこれらの行動が一概に悪いことだとは思わない。どちらの方向に進むかは、認知の仕方が分岐点だと思う。画面から溢れてくるキラキラを身に纏って自分のモチベーションを上げるか、それとも自分の平凡さと比較して自分のキラキラさえ隅に追いやってしまうか。私は後者に進んでしまう女の子をできる限り引き止めたい。「そっちじゃないよ、こっちだよ!」って。

素敵だなあ羨ましいなあ憧れるなあ思うのは全然悪いことじゃない。気をつけるべきはその後に、戦って勝とうとしたり、神経をすり減らそうとしたりすることだと思う。だってそれは、自分の中にずっとその人を居座らせているのと同じだから。そんなの自分の良いところ全部、その人の座布団の下敷きにしてしまっているのと同じだから。

それに自分を磨いているはずが、いつからか気付かぬうちに削っていたなんてことにもならないでほしい。素敵なチャームポイントと気付かず無くそうとしたり、充分魅力的なのにもがいて疲れてしまっている女の子を見るのはもう懲り懲りだ。

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自分たちの人生は、きっと案外平凡に終わる。世界のスターにはなれないし、時代を変える人間でもない。きっと映画にしたら、編集に困るほど穏やかな時間が多いことだろう。これは別にネガティブに捉えてほしいわけではなく、そんな誰かに語り継がれるような人生ではないのなら、隣の芝生が虹色に見えている場合ではないという意味だ。

私はそばかすがある女の子にときめくし、お肉が削ぎ落とされた体型よりお肌がプリッとしたスタイルが好き。気を遣って誰かと過ごすより、一人でおうちでのんびりするのが幸せ。

でも私のこの価値観に共感できない人は当たり前にいるし、それでいい。共感が難しい価値観を持っている人は私にもいるし、仲間外れになったような気分になる時もある。だけどそこで責めたり押し付けたりせずに、「あなたはあなたの幸せを守って~私は私の幸せを守る!」考えられる人が増えたらいい思う。自分の専門家は自分しかいないから、自分の幸せを誰かに委ねず、自分の幸せ応援団長として敬意をもって味方になるしかない。

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ところで、「女の子」と「女性」の境界線はなんだろうか? ガールズトークという言葉もあれば、レディースデイという言葉もある。きっと境界なんてあやふやだろう。自ら名乗らないだけで、どちらも私の中に存在する。

10年後の私はアラフォー世代になるけど、それでも私は「女の子」であり「女性」のままだろう。
10年後の女の子へ。
自分の「好き」に自信をもってね!
自分の「幸せ」は自分で守ってね!
いつだって人生の「主役」でいてね!
10年前の女の子より。