私のふるさとは灰色だ。
47都道府県の中でも日照時間は下から数えた方が早く、逆に降水量はトップ10に入ると言われている。
1年を通じて外出時に傘を持ち歩くことが普通だし、冬には雪も降る。もちろん、そこそこ寒い。

今年の年末年始は、ずっとふるさとで過ごしていた。
出発日の東京は雲がほとんど無い青空だったのに、ふるさとの駅に降り立って出迎えてくれたのは中々に強い雨だった。もれなく灰色の空も一緒に付いてくる。
この差があまりにも顕著過ぎて、「相変わらずやな……」と思わず苦笑してしまった。

滞在中の6日間で青空を見たのは、わずか2回のみ。それも、1時間も経たないうちに元の曇天に戻っていた。
あいまい、もやもや、どんより、陰鬱——。
こういった言葉がお似合いのふるさとの空は、私の青春時代を象徴しているかのようだ。

◎          ◎

内気で、何をするにも自信がなかった自分。
そんな私を、格好の如く「標的」にするクラスメイト。
孤独な私をちゃんと見ているのか見ていないのかは不明だが、ことあるごとに「みんなと仲良くしましょう」と咎める先生。
当時読んでいた小説の主人公も、自身の心の動きを灰色で例えていた。

—— 何も考えない。何も感じない。そうすれば大丈夫。克久は心を灰色に塗り固めるのが上手になった。
——こうなると克久の返事などどうでもいいらしい。克久は急に自分の心を灰色に塗り固めはじめた。意思でそうしたのではなくて、自分が三人組のいる空気の外側に放り出されそうになったら、自動的にスイッチが入ったみたいだ。
(中沢けい『楽隊のうさぎ』(新潮文庫)より)

彼は当時の私と同じように、中学生で、同じく吹奏楽部に入部し、そして学校には自身の居場所が無いと考えていた。
「心を灰色に塗り固める」という表現を初めて目にした時、私が学校で過ごしている時間に抱えていた心の硬直をまさに言語化してくれたと感じ、コンクリートのような自分の心を少し愛おしくも思った。

でも、この灰色にまみれた時代を過ごしてきたからこそ、今の自分が存在していると胸を張って言える。
他人にされて嫌なことは絶対にしない、嫌な言葉を吐かない。
ステレオタイプ的な差別や偏見を持たない。
自分の考えを押し付けるのではなく、相手の意思を尊重する。
ひたすら心を灰色に塗り固めていた時代を経て、他者に優しく、少しのことでもめげない素敵な人で在りたい、と心に決めるようになった。

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ある意味では私は、ふるさとに対して「好き」とも「好きじゃない」とも言えない、ふるさとの空と同じもやもやとした想いを抱えている。
大事な家族や友達がいるし、外の空気やご飯はやっぱりふるさとの方が美味しい。でも、ふるさとにいると、どうしても心を灰色に塗り固めていた時代が思い出され、息が詰まる実感がする。

でも最近になって、それでも良いんじゃないか、と思い始めた。
「灰色」は、言い換えれば「白」でも「黒」でもない中間の色で、どちらにも柔軟に対応出来る可能性があるとも言える。
将来、私がどちらの考えに転ぶかは全く分からない。でも、今後も長いであろう人生の早い段階でふるさとへの想いを決めつけてしまうのは勿体ない気もするし、ふるさとへ「帰らざるを得ない」可能性もいつか出てくるかもしれない。その時への心の余力を残しておきたいという考えも少しはあったりする。

帰省中にフィルムカメラで撮り溜めた灰色だらけのスナップ写真を眺め、次はいつふるさとに帰れるだろうか、と思いを馳せた。