「歩いてると脚外れそうになるんだわ」
「え?」
「なんか産むときって骨盤開かないといけないから。今頃から身体が準備し始めて、股関節が緩んでくるんだって。だから歩いてるとき、脚かくーんってなりそうな時ある(笑)」
「え〜そうなんだ!?やばいね。すご」

何それ何それ何それ。
知らない、知らないよそんなこと。
誰もそんなこと教えてくれなかったよ。
大きなお腹を抱えた友人とうららかな春の陽光の下を歩きつつ、わたしは舌を巻いていた。驚きは全く隠せていなかったと思うが、実際に感じていた衝撃は、表に滲ませた声色以上に大きかったと思う。

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30歳にもなると、身の回りで妊娠・出産の話が増えてくる。その中にはリアルな体験談を聞かせてくれるくらいには近しい関係性の友人もいた。
わたしはその友人から多くの話を聞かせてもらった。生ものやお酒、カフェインはダメという比較的ベーシックな情報から、「米が炊ける匂いがダメだった」という個別的なつわりの事情まで。冒頭の会話は、その中でも印象的なやり取りの一つだ。今まで生きてきて、「妊娠中に股関節が外れそうになる」という可能性など、一片たりとも考えたことがなかったからである。

友人とわたしは春空の下をゆったりと歩いた。穏やかな天気がそうさせたのではなく、友人の身体に合った速度で歩いているからだった。

この時よりも前、底冷えのする冬に二人で会った時は、その子の妊娠がわかって2回目の集まりだった。今から思うと妊婦をあんな寒い日に外に出して良かったのか反省させられる。わたしたちは広々としたレストランに入り、ウェイトレスがわたしたちを先導して店の奥のテーブル席へと案内した。スタスタと行くウェイトレスを追い、ふと気がついて振り返ると、友人は神妙な面持ちでわたしの後ろ5mくらいを歩いていた。そう、妊婦はスタスタと歩けないのだ。この日出会ってすぐ、彼女はわたしに「ごめん、ちょっとゆっくり歩いてもいい?」と告げてくれていたのに、わたしは2時間もしないうちにそれを忘れていた。妊娠にまつわる経験不足を痛感し、恥ずかしく思った。

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だから冒頭の春の日は、意識してゆっくり歩いた。もっとも観光客で溢れた有名神社の境内は、サッサと歩く方が難しかったかもしれない。
桜の盛りでもあった。ソメイヨシノの花びらが散りかかり、友人は小砂利を踏みしめて一歩一歩歩き、わたしの知らない身体の変化について語った。その光景を何度も見る夢のように思い出してしまう。命を腹に宿した友人が急に神々しく見えるなんて、なんて月並みな感性だろう。

わたしは妊娠・出産について、あまりに何も知らなすぎる気がする。
あまりにも知らない自分が怖い。
自分が知らないからこそ、妊娠・出産が怖い。
友人を神秘化している場合ではないのである。いつか自分も行く道かもしれないのだから。そこには陣痛、産痛など目立ちやすいものだけでなく、生活の隅々にまで入り込むほど生々しく細々とした苦しみが、山のようにあるはずなのだから。

少子化の進む時代、両親の間に第二子として生まれ、親戚付き合いも近所付き合いも特になく、新生児はおろか自分より年下の子さえ遠い存在で、妊婦など身近にいたことがない。わたしのような人間はたくさんいるのではないだろうか。

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義務教育で、もっと色んなことを教えてくれたらいいのにと思う。学校に限らず、社会全体で妊娠・出産の情報が当たり前に溢れていればいいのにと思う。
わたしもつい、友人の身体の変化を神秘的に捉えてしまったけれど、それこそが一番の問題なのではないか。女性の身体の生物学的・化学的変化を「神秘」に押し込んでしまうことで、情報が公に出回らなくなり、情報が出回らないからより一層「神秘」に感じてしまう。そんな悪循環がある気がする。

これからを生きる若い女性のために、今から少しずつ、妊娠・出産の情報がオープンに交わされる空気が世の中で醸成されていくのを望んでいる。微力ながらその一助となればと願い、このエッセイを書いてみた。