これはもう10年も前の、淡くて柔らかな恋の話。

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私と彼は、3つ離れた大学の先輩後輩同士で、隣の大学院に進んだ彼の研究室に、私は当時、壊滅的に理解ができなかった統計を教わりに行っていた。

人影の少ない夜の大学。そこで甘いロマンスが生まれるようなこともなく、ただただ叱咤激励が続く毎日。
「これ、小学校で習うことだけど…」とときに呆れられつつ、毎晩校舎が閉まるまで数字と向き合う日々を重ねた。
いつの間にか、最寄りの駅まで他愛ない世間話をしながら帰ることが習慣になっていた。

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街頭の明かりもまばらな、国道から線路を跨いで続く並木道。
その日は、おしゃべりな彼が珍しく、相槌くらいしか口を開かなかった。
いつもなら、私が話す隙もないくらいにまくしたてるのが常なのに、不気味なくらいに静かなまま歩が進んだ。
私は、なにか気に障ることをしたか、言ったか。不安が頭をもたげたときだった。

「ずっと、言おうと思っていたんだけど」

ふと視線を向けると、暗闇の中からふたつの瞳が、私を見ていた。
雨に濡れた子犬のそれのような、臆病な光がそこにあった。
それから、ぽつりぽつりと溢れる言葉を聞いた。

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接する時間が増えたことで意識する瞬間も増えたこと。
ただ自分には甲斐性もないし、私に気持ちを打ち明けることもなかなかできなかったこと。
でもその気持ちを抱えたまま、過ごすことも苦しいと思っていたこと。

当たって砕けろでいい、とあなたは言った。
私は、そんなの無責任だと返した。

「そんなこと、私に一方的に打ち明けて、どうしようっていうんですか?そんなの、自分が楽になりたかっただけでしょう、当たって砕けろでいいなんてうけど、ほんとはどうしたいんですか?」

私にも、目の前にいる彼に負けず劣らず、先輩に寄せる以上の感情があった。
勘違いであるといけない、彼に迷惑であったらいけない、そう理性が言うからこれまでねじ伏せていた。
でも、そうでないのなら。
密かに想いを寄せていた相手にぶつけるにしては、しかも自分にも同じ感情がありながら言うにはあまりにも横暴だとわかっていたけど、それでもなお止められなかった。
だって最初のその一言は、絶対にあなたからきたいのだから。

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数十秒にも渡る沈黙の後、びっくりするほど小さな声が聞こえた。

「あなたのことが好きです」

待ち侘びていた言葉だった。

返事は1週間後でいいと言われた。
一度別れて頭を冷やして考えたほうがいいという彼なりの気遣い。その優しさがもどかしかった。がんばって手繰り寄せた糸が今にも切れてしまいそうで、怖かったからこう言った。

「今言ったことが本当なら、少しだけ今、近くに来てくれませんか」

彼はびっくりした顔をして、逡巡した後、ぎこちなく私に近づいた。10センチ差の肩が私の目元の間近に寄って、刹那、ふわりと私よりも少しだけ高い体温を感じた。

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おばあちゃんの懐に抱かれたときのような、懐かしい匂いだった。
香水も何もつけていない、無垢で、素朴な匂い。
例えるなら晴れた日に外に干され、たっぷりと陽の光を吸い込んだふかふかの布団のようなそれ。
初めてなのに、ずっと前から知っている気がした。
温かくて優しくて泣きたくなるような、そんな抱擁だった。

名残惜しく思いながら、身体を離してホームで見送った。たった今起きたことが夢のようで、その日はなかなか眠れなかった。
男の人は、もっとぞんざいなものだと思っていた。けれど私を抱きしめた彼の手は、壊れ物を扱うかのように慎重で丁寧だったから。

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その後、私たちは大人になって、見据える方向が重ならないことを理由に別々の道を歩むことになった。そのこと自体に後悔はないけれど、今でもふと思い出すことがある。

昼休みにコーヒーを買いに外に出たとき、ぽかぽかとした陽気の中に感じる、陽だまりの匂い。休みの日の午後に部屋の中に差し込む、まどろむような光の匂い。
それを感じるたびに、私はあなたの存在を思い出し、少しだけ切ない気持ちになる。

あなたは、太陽そのものだった。
別れた後も、ずっとあなたの優しい香りは、私の中に残り続けている。