大人になると子供の頃よりも怖いものが減っていく、というのは違う。どちらかというと、大人になればなるほど、人生のトラウマになっていくような過酷な経験をすることが多い。それは、雷がドッカーンと打ち付けた衝撃というよりも、日常のなかで「こわい、ダメだ」と思う瞬間を積み重ねた末に、「一番こわいもの」が生まれるのだと、私は感じている。
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こわいもの=避けたいもの。この世で一番こわいものは、目に見えない人の心の動きだ。でもそれは避けては生きていけないから、こわいものに変わりないのだ。
よく考えてみると、恋愛ってすごくこわい。好きだ、といっても、どうして?このさき、どうなるの?そんな葛藤を繰り返す不安定なものなのに、どうして恋愛することに夢を見出すのだろう。こわいものほど、人間は手を出したくなるのだろうか。そう述べている私も、恋愛することは究極の人間関係に立ち入ることであって、常に幸せの裏にはこわさがあると感じることもある。
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そもそも人と関わることに対して、身が縮まるような息苦しさを覚えたときがあったせいで、人とのコミュニケーションをスムーズにできない自分にも、こわさを感じている。笑顔で近寄ってくる人がこわいし、優しい言葉を丸ごと信じるなんて、違和感があった。けれども、自分に対してこわいくらい真っすぐ寄り添ってくれる優しい人もいるからこそ、こわいくらい嬉しいと思うこともある。そんな強い味方が、私はこわいくらい好きだ。自分をこわいくらい狂わせる何かは、誰にだってあるはず。
妖怪や怪談をこわいと信じていた幼少期の頃とはさようならしてしまったけれど、もっと身近にこわいものは存在するのだと、日々生きていて感じる今。すっかり大人になったのだと寂しさも募っていくけれど、こわいくらい離れられない人と出会って、死ぬまで一緒にいる。こんな人生観を、そんなの先が見えないし、こわい、と避ける人もいるかもしれない。
それでも、こわいという事象から逃げずにその先を辿っていった人にだけ、たしかな幸せを見つけることができる。そう思える今は、こわいことをエネルギーに変えられる自信が湧いてきている。
震えそうなくらいこわいことを通らないと、光は見えない。不安、恐怖、孤独。こうしたものを大人になった今、ひしひしと感じているということは否定できない。もしこの先、大丈夫、こわいものなんて何もないから。と言い張れる場面が訪れるのだとしたら、それもそれで寂しいものだ。目に見えない、先のわからない未来は、いつだってこわいし、時に心躍らせるものとして「今」を支えてくれることもある。
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どうして幼いころ、妖怪がこわかったのだろう。それは、妖怪の感情がわからず、どう接していいかわからなかったから。そうだとすると、人間関係も同じで、初対面の人にどう思われるか、好きな人に好印象を与えられたかな、とか。大人になっても、わからないことはわからないに変わりがないから、いつだってこわい。それでも、一番怖い人間に時には勇気づけられたり、傷つけられたり、感動をもらったり、幸せを貰ったりする。自分にとって一番怖いものは、もっとも身近で、手の届くところにあるけれど、心の奥には触れられないという複雑な構造をなしている。その複雑なこわさに頼って生きたい日も、離れたい日も、近寄りたい日も、こわいくらいある。
人間はこわい。欲求をどうしても生み出してしまう生き物だから、こわい。怒ったり笑ったり、意味のないことに夢中になったりするから、こわくて面白い。
私だって、毎日同じ気持ちではいられない「こわさ」を持ち合わせた生き物だ。もしかすると、一番こわいものの正体は、自らの人生そのものに浮かび上がっているのかもしれない。