初めて死について考えたのは、小学校に入学したばかりの6歳の春だった。
きっかけは、テレビでやっていた世界の凶悪ニュース特集。
とある病院に勤務していた看護師が、入院患者の子供たちを次々と毒殺したという事件の再現VTRを観ながら、当時の自分と同じくらいの年齢で殺されてしまった子供たちのことを想った。
そのうちに、考えは「死んだらどうなるんだろう?」というところに行き着いた。

死について考えて眠れない。答えが分からず泣いていた

それからは眠れない日々がしばらく続いた。
「死ぬ瞬間には何を想うのかな」
「両親もいつか死んでしまうのかな」
「死んだら生まれ変われるのかな」
「生まれ変われなかったとしたら、私の存在はこの世から完全になくなってしまうのかな」
日中は学校や習い事のおかげで忘れられていた疑問が、夜になると布団の重みとともに容赦なくのしかかってくる。
だけど、どれだけ考えても行き着く先は不安と未知と恐怖でしかなく、納得のいく答えが分からないまま眠れずにメソメソと泣く夜が続いた。
「死ぬことを考えると怖くて眠れない」なんて、両親にはなんだか怒られそうな気がして言えなかった。

小学2年生の5月には、初めて親戚の葬式に出席した。
その日は運動会で、もうすぐ全ての種目が終わろうという頃、突然生徒席に現れた父に手を引かれて車に乗せられたことを覚えている。
早退させられた意味が分からず不貞腐れていると、到着した先は葬儀場で、そこには母の弟である叔父の遺影が飾られていた。
叔父の遺体と対面すると、母は膝から崩れ落ちて肩を震わせながら泣き始め、その姿に当時「大人は泣かない生き物」だと思い込んでいた私はとてつもないショックを受けた。
あの日の蒸し暑さ、校庭に吹いていた砂混じりの風、怒ったような父の顔、嗚咽する母、そして叔父の青白い顔。
そのすべてが「初めて対峙した死」の記憶として、今でも私の中に深く刻み付けられている。

とりあえず今を生きるしかない。考え尽くした答えはいつも同じ

これらの経験からか、毎年春から初夏頃になると、眠る前に死について考える癖がついてしまった。
考える内容なんて6歳の頃からほとんど変わっていないし、きっと生きている間に分かることなんて何一つないのに。
眠りにつく感覚が死んでいく感覚と似ているような気がして怖くなり、夜通し起きていようと試みていた時期もある。
ある夜ギリギリまで眠気に抗った結果、壊れたロボットのように全身が痙攣してからはなるべくやらないようになったけれど。

死について狂いそうになるくらい考え、考え、考え尽くすと、疲れ切った私は決まって同じ答えに行き着く。
それは「考えたって分かりっこないんだから、とりあえず今を生きるしかないか」という、何のひねりもないが至極真っ当な答えだ。
もちろんこれで死に対する恐怖が完全に払拭されることはないが、考え過ぎて疲弊した私の脳はこの答えに妙に納得してしまい、これによって失われた睡眠をどうにか取り戻すことができている。
しかし、疲れ果てるまで考えないとシンプルな答えに至れないなんて、つくづく厄介な性分だなと思う。

「いるよ」。死について考えて眠れない私に、彼はぽつりと言った

そして2022年現在。
28歳になった私は、2年前からパートナーと生活を共にしている。
コロナ、戦争、事故などの悲しく暗いニュースに一喜一憂し、すぐ情緒不安定になってしまう私とは対照的に、パートナーは常にフラットなメンタルを保っている。
その姿勢は死に対しても同様で、私が考えて考えて、考えまくった先に行き着いた「考えても仕方ないから今を生きる」という答えをごく自然に携え、体現している。
その達観っぷりは見事なもので、毎日何かに怯え、怒り、悲しみながらジタバタと生きている私は時折嫉妬してしまう。

ある夜、私はまた死について考え込んでしまい眠れずにいた。
隣に寝ているパートナーの横顔を眺めながら、いつか死に別れてしまう日が来るのかと思うとたまらなく悲しくなり、彼の手を握ってグズグズ泣いた。
そんな私に気づいたのか、彼はゆっくり手を握り返し、ぽつりとこう言った。
「いるよ」

「いるよ」だけでは、そこに込められた意味の選択肢があり過ぎるし、もしかしたら本当にただの寝言で、夢の中で点呼を取っていただけかもしれない。
それでも私の心にはその「いるよ」がじんわりと温かく染み込んで、気づけば眠りにつくことができていた。
「今ここにいるよ、ちゃんと生きているよ」
たった一言の「いるよ」には、そんな意味が込められているような気がしたから。

不安な時代であることは変わらなくても、今確かに生きている

眠れない夜を乗り越えて何とか朝を迎えても、今が不安な時代であることには変わらない。
明日も今日のように平穏に過ごせる保証なんてないし、いつまで生きていられるかなんて誰にも分からない。
そして「生きとし生けるものはみな死ぬ」という宿命からは、どうしたって逃れることはできない。
だけど今私たちは確かにここにいて、生きている。
それだけは確かだ。

分からないことを考えて疲弊するのではなく、今ある日々を取りこぼさないよう噛み締めて生きようじゃあないか。
眠れない夜はまた容赦なく訪れるだろうけど、その時は隣で何にも気にせずスヤスヤ眠るパートナーの手を握り、「いるよ」と心の中で唱えてみることにしよう。