今回は「死」について綴ろうと思う。「死」は生きている私たちにとって、最もヘビーなテーマかもしれない。では、なぜ、あえてそんな重いテーマでエッセイを書くのか?それは、つい最近、私が死を意識するような出来事があったから。

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それは、日本に住む方なら、ほぼ全員が知っていると言っても過言ではないであろう「南海トラフ地震臨時情報」。お盆真っ盛りの中、この情報が世に与えた影響は大きかったように思う。ニュースによると、この情報により、お盆の予定を変更した人もいると聞いた。それだけ、私たちにとって、もしかしたら、日本人にとってと言う方が適しているかもしれないが、地震は命を脅かされる存在であると言えそうだ。

私は20年以上生きてきて、何度か地震を経験しているが、幸い、おおよそ、震度5以上の地震は体感したことがない。今やテレビを見ていて、突如、地震の速報が入るのが、そこまで珍しいと感じなくなった。私が子供の頃、こんな頻繁に地震が起きてたっけ?と考えさせられる。もちろん、子供の頃は、地震に対する危機意識が今と比べて薄かったというのもあるかもしれない。

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私は普段、地震に限らず、自分の命が脅かされる状況、つまり、「死」について、真剣に考えていない。それは若さであったり、病気やその他環境面等の観点で命の危機に瀕する場面に身を置かされていないという事情も大いに関係していると思う。自分が死ぬなんてこれっぽっちも思わない。しかし、不思議なもんだ。人間は生まれてきたら、必ず死ぬ運命なのに。それは、もちろんわかってはいるけれど、今すぐには起こらないであろうという謎の安心感のもと日々を過ごしている。

それが一変、今回の「南海トラフ地震臨時情報」を受け、私の中で少し意識が変わった。いくら、若いとはいえ、それに命の危機に瀕していないとはいえ、その保証はどこにもないということ。地震が起きたら必ず死ぬという訳ではないが、地震に関わらず、いつどこでどうなるかなんて見当もつかない。私は、今回ほど「死」について真剣に考えたことはなかったと思う。それを恵まれていたととるのか、私が単に能天気だったととるのか判断しかねるが。

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考えてみればそうだ。「生きる」の反対は「死ぬ」だ。私たちは命があるから生きていられる。言ってみれば、生きることは案外、「死」と隣り合わせなのかもしれない。けれど、「死」のことばかり日に日に考えるのはあまりにも辛いから、きっと忘れているだけ。いや、無意識に忘れているフリをしているのかもしれない。きっと、そうして、都合の良いようにやり過ごしている。そうでないと、穏やかな日常生活を送ることができないだろうし、日々の楽しいことに目を向けられない。

「死ぬ」ことは怖い。けれど、そう思うのは、「生きたい」と思っている証拠。その裏返しだと思う。「生きたい」からこそ、私たちは悩むのだと思う。私にもきっと色々な悩みがあるだろうけれど、探し出すとキリがないので、あえて探しに出かけるのはやめにしておく。けれど、その悩みの根本は「死への恐怖」かもしれない。なぜなら、それは避けては通れない道だから。

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「死ぬ」ことに対して恐怖心を抱くのは悪いことではないと私は思っている。本当に怖いのは、ただただ怯えているだけで何の行動も取れないこと。せっかく生きているのだから、生きている間くらい楽しいことをしよう。そして、素敵な思い出を作ろう。生きている「今」しか、できないんだから。