40年以上この名字と一緒にやってきた。年齢とともに受け入れられるようになってきた「ありのままの自分」の「その一部」として、ようやっと、愛着まではいかない感情が少しずつだが、増えてきているような気がする。
ただ、来世で好きな名字が選べるならば、選ばないけどね、というくらいには、だ。
私が持っているのは「渡部」という名字だ。
自分の名字が嫌いだった。
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子供の頃は決まってなんでも、最後だった。入学式や卒業式の入場も、健康診断の順番も、誰も後ろに居なくなった廊下で、ドキドキしながら待っていた。新学期、教室の中の座席も必ず後ろの端っこだった。今となっては悪くないと思う。
「わ・た・べ」という響きが圧倒的に爽やかさに欠け、鈍臭い感じがするのも嫌だった。「サトウ」「スズキ」「タカハシ」などの一軍ネームを羨んでいた。
特に思春期の頃は「名字のせいで、私はあの子みたいに可愛くなれないんじゃないか」と本気で考えていた。
中国語を習い始めて「渡部」は一層鈍臭さを増した。「どぅーぶー」と読むのだ。
しかも、「ねぇねぇ」と人に呼びかける時のような下がるイントネーションで。軽やかなところが一切なく、自己紹介するのが嫌だった。
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そんな「わたべ」で懸命に生きているのに、さも当然のように「わたなべ」と呼ばれることは、いまだにとてもとても多い。
どう考えても「わたなべ」と読む方が不自然な気がする。「な」はどこからやってきたのか。「な」問題とともに腹の立つのは、割とどこでも振り仮名を必須で書かされるのに、読まれないことだ。もはや最近はそちらの方が腹立たしい。
この呼び出しのやりとりは、第一印象を決める大事な指標となっている。特に初めて行くところでは、やきもきしてしまう。病院や銀行での呼び出しでは、自分かな、と思ってもすぐに返事をしない。
本当に「わたなべ」さんを呼んでいる可能性もあるし、振り仮名の存在にどれだけ素早く気がつける人なのかを見ているのでもある。そして、今後ここにやってくる「わたべ」さんのがっかり防止のためでもある。
「あ、このケースは呼ぶ前に振り仮名を確認」と頭のどこかに置いてほしい、と念を送る。もちろん、間違えずに呼んでくれた人にはスマイルだ。
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私の夫はミャンマー出身だ。ミャンマー人は名字を持たない。名前だけで生きているのだ。日本でカードや証明書、何かの申込書を書かなければならない時、彼は決まって困ってしまう。
ただ持っている名字を書き入れるという、ほんの数秒で終わる作業が彼にとっては思わぬ壁となるのをたびたび目にし、名字が当たり前にあることのありがたみを感じる。ただ、まだ「渡部」を好きになったわけではない。
「渡部」との距離感はあまり縮まらないままだったが、私は大人になり、どんどんと生きやすくなるのを感じている。
「みんなと同じものを持っていたい、こうでなければ”kawaii”じゃない、こんな大人にならないと幸せじゃない」というような、変なでっかい世間からの洗脳を、無視してのしのし踏み倒していける大人になったのだ。
なんなら人と違うものを持っていたいし、自分の”kawaii”は自分がそう思っていれば十分だし、こんな大人になった私も幸せになれるし、もう十分幸せである。
爽やかな名字じゃなければ可愛くなれないわけではなかったのだ。「渡部」は私から大切なものを奪ってはいなかったのだ。
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とはいえ、私は今でも「サトウ」「スズキ」「タカハシ」ら一軍への憧れを持っている。何かの成り行きで芸名をつけるなら、軽やかな響きの名字にしてみたい。ただ、不思議なことに「渡部」のままで、ちょっといい感じにして見せるのも悪くないとも思えている。
夫は最近日本に帰化して、「渡部」を名字として持つことになった。私としては、ぜひに、とおすすめしたい名字ではないのだが、他につけたい名字があるわけでもなく、自然と妻の名字となった。
「いいね」とは言えないが、ミャンマー育ちの彼からしたら、鈍臭くも、やきもきもないのかもしれない。これからもきっと何度も書かされる申込書と彼との時間が、彼の新しい名字との未来が、ちょっとでも幸せなものになればいいと思う。