第173回国会でなされた請願によれば、選択的夫婦別姓反対派が掲げる理由は「夫婦同姓の方が別姓よりも、より絆(きずな)の深い一体感ある夫婦関係、家族関係を築くことができる」となっている。
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私たちは、夫婦別姓を取り入れている。なぜかというと、日本でも外国籍の人との婚姻は夫婦別姓が認められているからだ。
今のところ、なんの問題もない。その理由はアメリカで生活しているため、社会全体が「別姓の夫婦もいるよね」という理解が進んでいるのと、システム的にも別姓だからといって夫婦関係や親子関係を疑われることがないからだと思う。
また、一人ひとりに選ぶ権利がある、ということが当たり前と認識されているのも大きいと思う。自分と違う選択をしているからといって、相手から否定されることもない。
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ネオフォビアという言葉がある。初めて見るものや馴染みのないものに恐怖心を抱いたり、反射的に拒絶する心理のことを指す。選択的夫婦別姓に反対している人たちは、今までに体験したことがないという理由だけで夫婦別姓に反対しているのではないだろうか。
もしそうだとしたら、私は声を大にしてお伝えしたい。その心配はまったくない。これは私の経験した上での意見でもあるが、世論調査でも60%以上が「別姓による一体感の変化はない」と回答しているようだ。
歴史的にみても、源頼朝の妻が北条政子だったように別姓が当たり前だった時代もある。そのときどきで、価値観は人々に受け入れられながら変化していくものだ。
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また、本人でもないのに、別姓よりも同姓が深い絆を築くことができると言い切れる根拠はどこにあるのだろう?この認識には、相手も自分と同じ考えだろうという価値観の押し付けはないだろうか。
日本では、多くの人が同じような体験をし過ぎていると感じることがある。「普通は」なんて言葉が当たり前に使われているし、本当に「普通は」がまかり通るくらい共通の理解や体験を持ち合わせていることが多い。
しかし、本来は違う人がいてもいいのではないだろうか。お互いに共通認識を持てる安心感もあってもいいし、お互いの相違によって知らない世界が広がっていく楽しさもあっていいはずだ。
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そもそも、一体感は同じ名字のおかげで作られているのだろうか?皮肉かもしれないが、同姓という名前を与えられただけで簡単に一体感が生まれていたら、不倫も離婚もこの世に存在しない気がする。
大切なのは、名前ではない。
家族の一体感を生むのは、コミュニケーションのはずだ。お互いが理解を深めるために会話を重ねて、その都度修正していく。その中に家長のようなものはなく、大人も子どもも同じ目線で、ひたすらに会話を重ね経験を共にすることが大切だと思う。
これが私の思う夫婦や家族に一体感を持たせていく方法だ。
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もちろん、同姓にすることで一体感を感じたい、感じられる人は同姓を選べばいい。ただ、別姓だからといって、その夫婦や家族の一体感が同姓よりも劣ると外部から判断されるものではないと思う。
まずは日本全体に、結婚の際は「名字について双方で話し合うもの」という認識が広まって欲しいと思う。現状は大半の女性が名字変更を行っている。しかし、本来は男女関係なく一人ひとりに選択の権利が渡されているものだから。
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自分と違う価値観を容認でき「同じ」というだけに安心感を抱かず、それぞれの選択を尊重し合える世の中に変わっていくことはできる。
私たち家族もまだ試行錯誤を繰り返しているけど、それはきっと同姓の家族であっても同じことだと思う。だって家庭内の絆は、姓だけに由来するものではないはずだから。別姓であっても、絆の深い一体感のある夫婦関係、家族関係は築くことができると信じている。