この唯一無二のユニークな姓は、死ぬまで私のアイデンティティ

私の姓はとても珍しい。外国人である父の姓と日本人である母の姓を組み合わせた私の姓はほぼ確実に世界に一つだけのユニークな姓と言えるだろう。
そしてこのユニークな姓は私のアイデンティティの根幹だ。二重国籍が認められていないこの社会で父と母の姓を組み合わせた姓を持つことによって、私はハーフというアイデンティティを確立し、またそれを社会にわかりやすく提示するための術となっている。
毎回自己紹介の時に自分のバックグラウンドを説明しやすくもしてくれる。だからこそそれを結婚によって失うことは、私にとってアイデンティティの喪失そのものになる。
しかし統計的にみて、女性である私は結婚した際に姓を失う可能性が高いだろう。たとえ私のパートナーが私の姓を使うことになったとしても、そのパートナーはこの特殊な姓に愛着を持てるものなのだろうか?
選択的夫婦別姓は私にとって自分のアイデンティティを守る術の一つだと考えている。戸籍上に私の姓が残る、それは書類上では同姓を名乗り、旧姓を通称として使うだけでは感じられない、確かなアイデンティティの形だ。だからこそ選択的夫婦別姓の議論は私にとっていつも自分のアイデンティティに関わる繊細な気持ちを呼び覚ます。
選択的夫婦別姓の議論は1996年に民法改正の答申がなされてからずっと続いているらしい。なぜ今までの仕組みである家族で同姓を名乗るという選択肢に加えて夫婦別姓という新たな選択肢を加えるだけの法律がここまで議論を巻き起こすのか?私には今でもよくわからない。
反対派の意見を理解しようと、調べてみたこともあったが私には理解できず苦しんだ。
反対派の主な理由の一つに家族の絆が危うくなり、子どもが産まれた際に、家族の一体感が育まれないため、子どもの健全な成長が妨げられるというものがある。
既に特殊例として家族が皆違う姓を名乗っている娘として私は声を大にして言いたい。私たちの家族の絆は別姓だからといって崩れるような脆いものではない。両親が違う姓を名乗っていようと家族の絆は確かに存在している。
むしろ家族全員が違う姓を名乗るということこそが私の家族のユニークさを生み出し、アイデンティティの確立に役立った。
さらに夫婦別姓が子どもの健全な成長を妨げるというのであれば私の心は健全に育っていないということになる。この意見はあまりにも上から目線で傲慢ではないのか?
もちろん政治が子どもの健全な成長を保証することは大事なことだろう。ただし何が健全で何が健全ではないのかを政治に決めつけられるのはごめんだと思ってしまう。夫婦別姓が子どもの心の健全な成長を妨げると決めつけてしまうのは少々短絡的ではないのだろうか?
しかしこれら全ての意見は私個人の日本人としては特殊な夫婦別姓の両親を持つ子どもという立場に基づいての意見だ。
でもこの経験に基づく意見は特殊例なのだろうか?他の家族は同じ姓を名乗っているからという理由だけで家族の絆を構築し、確認しているのだろうか?同姓を名乗るということは家族の絆を確認する構成要素になっているのかもしれないが、それ以外にも家族の絆を確認する方法は私たちの家族のように無数にあり、どれを選ぶかは個人の自由ではないのか?
夫婦別姓だからといって家族の絆を確かめる方法がなくなるわけではないことは私の経験に基づいた確かな意見だ。
世論調査を見ても夫婦別姓に賛成する人が多い中、このような曖昧な理由で私は自分のアイデンティティの核となるものを失いたくない。
夫婦別姓を認めても夫婦同姓を名乗ることの権利は何一つ失われない。ただ夫婦別姓という新たな選択肢を認めるだけだ。
選択肢を増やすことはこれまでの形を否定するわけではない。より様々な形の家族を認め、家族の絆を確認する方法を増やすことだと私は強く思う。
私のこの唯一無二の姓は私が死ぬまで私のアイデンティティの一部だ。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。