私は自分の名字が大好きだ。
名字を変えたくない。夫婦別姓制度が取り入れられるまで、結婚したくない。
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と思っていたが、夫婦別姓制度が取り入れられるのはまだまだ先のようで、気がつけば周りの同級生たちは出産ラッシュを迎えていた。
結婚ラッシュは気づかぬうちに終わっていたのか。1年前の秋、ようやく私は焦り始めた。
職場の飲み会も、メンバーを確認すると20代前半ばかり……。同世代は既婚者が多く、2次会まで参加している人は私1人ではないか。
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悶々としながらビールを飲んでいると、「桃乃さん、相談があります」と新卒2年目の男の後輩がやってきた。
「なあに?」
「彼女が欲しくてマッチングアプリをやっているんですけど……会っても全然楽しいと思えなくて……」
若者らしい相談だ。しかし、なぜ29歳独身の私に相談するのだろうと思いながら
「楽しいと思えないなら、会うのやめたほうがいいんじゃない?」
とアドバイスしてみた。
「でも、クリスマスまでに彼女が欲しいんです!」
と意気込む後輩に、若くて可愛いなぁと思いながら、彼の恋愛経歴などを先輩らしく、優しく聞いていた。
それが、彼と私の始まりだった。
◎ ◎
飲み会でたくさん話した次の日から、毎日のように後輩からLINEがくるようになった。
2人で飲みにいくようにもなり、ある日、告白された。
「本当はマチアプで出会った女たちよりも、桃乃さんのほうが可愛いし面白いなって思ってたんです。好きです。付き合って下さい」
「でもさ…私、もうすぐ30歳だよ……。結婚とかも考えちゃうよ……」
「俺、早く結婚したいと思ってるから大丈夫です。結婚前提に付き合いましょう」
「あとさ……私、名字変えたくないの……」
「知ってますよ。桃乃さん、夫婦別姓の時代来てほしいって飲み会で話してたから……。それで、親に俺が名字変わってもいいか聞いたんです。そしたらいいよって言ってもらったから、大丈夫です!」
後輩のまっすぐな瞳にやられたのと、恋愛はタイミングが大事なこと、今までの経験でよく分かっていたので、「わかった。付き合おう」と答えた。後輩は犬のようにはしゃいで、私を強く抱きしめた。
こんなに若い人に好きだと言ってもらえて、しかも結婚前提に付き合ってくれるなんて……。
私は後輩から彼氏となった人の腕の中で、これ以上ない嬉しさを噛みしめた。
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クリスマス前に付き合った私たちは、イルミネーションで有名な場所にデートに行き、お互いにクリスマスプレゼントを交換した。冬の誰もいない夜の海ではしゃいだり、深夜の公園でいちゃいちゃしたり。まるで大学生に戻ったような月日を過ごした。
若くてイケメンで優しい彼氏。周りの友人に「6個下の彼氏ができた」というと「いいなぁ」と羨ましがられる。幸せいっぱいとはこのことか。春には半同棲生活を始め、あっという間に季節は過ぎ、また秋が近づいてきた。
「俺さ……結婚するなら名字変えてもいいって昔言ったけど……おばあちゃんが嫌がると思うから……難しいと思う」
ある日、ぽつんと彼が言った。彼はおばあちゃん子だと聞いていたが、親には確認して、おばあちゃんには名字を変えていいか確認しなかったのか。
しばらく返答を考えた後、「名字、変えなくていいよ」と言った。彼は驚いて目を見開いていた。
「私、あなたの名字になってもいいよ」
「え……。でもあんなに名字変えたくないって言ってたのに」
「んー、でもあなたのこと大好きだから。一緒になれるなら、名字変えてもいいって今は思うよ」
素直な気持ちを彼に伝えた。自分でも、あんなに変えたくなかった名字を変えてもいいと思う日がくるなんて、不思議だった。これが彼を愛しているということなのかも。彼は私が本当に名字を変えてくれるのか気にしているようで、下を向いているけど。気にしなくて良いのに……。
と思った1週間後、彼に「別れよう」とフラれた。
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失恋は初めてではないけれど、半同棲までしてフラれたのは初めてだったので、ご飯を食べると吐いてしまうほど落ち込み、1か月たってやっと食べれるようになってきた。
きっと「おばあちゃん」は口実に過ぎなくて、私が「あなたが名字変えないなら別れる」と言うのを期待していたのではないかと思う。ずるい男だ。
私にとって名字は大事で、大好きで、変えたくない。そんな私が人生で初めて「この人と一緒になれるなら名字変えてもいい」と思えるくらい好きな人に出会えた。
そんなこともあるのだから、人生どうなるか分からない。夫婦別姓が認められる時代が意外とすぐくるかもしれないし、元彼と同じくらい好きな人に出会えることも……あるかもしれない。
手放そうと一度は考えた名字を名乗り、今日も私は生きていく。