自分に自信がないということは、客観的な評価を受け入れることが難しく、自分自身の正しい評価がしにくくなることだ。
それに気がつくことができたのは、ここ数年のことである。
だけれども、それに気がついた時には、なににでもなれるという選択肢が、すでにてのひらからこぼれ落ちてしまったあとだった。
演技に興味はあっても、自分自身を使って表現するのが怖くて
演技という分野に興味があった。
本でも映画でも媒体はなにであれ、物語に没頭するあの瞬間がすきで、自分がその一部になれるという究極の没入体験だと思っていた。
しかし、さかのぼれば幼稚園の頃にはすでに、幼馴染のみなみちゃんの小さくて華奢なかわいらしい姿にあこがれて、
「どうしたらみなみちゃんみたいに細くになれるの?」
と聞いたように、物心ついたころから容姿にたいしてコンプレックスがあった。
そのために、自分自身をもちいてひとまえで表現することが怖かった。
容姿を出さなくても声だけで表現するのはどうだろう と声優という選択肢についても考えたことがあった。
それもまた、わたしがあこがれた鈴の鳴るような可憐な声からはほど遠い、ハスキーで低くも高くも聴こえる、どっちともつかないような自分の声に臆してしまい、その選択肢も選ぶことはできなかった。
演技の道は閉ざされた。ハワイで暮らす準備もなんにも進んでいない
その後社会人になってから、仕事でとある有名な声優さんとお話しさせていただく機会があり、「特徴的な声だからこそ需要がある世界なんだからやった方がよかったんだよ。学生の時に目指せばチャンスはきっとあったのに」といわれたときには、自分の理想ばかり追い求めたために、"実際にその世界で求められていること"がみえていなかったわたしのふがいなさに、さらに自信を失うきっかけを作ってしまった。
そんなわけでこの先にいる未来のわたしには、演技にたずさわる道は閉ざされた状態にあるということである。
ありのままのわたしにたいして自信がないことはもちろん、あたらしく挑戦してみるという選択肢すらいまのところないからである。
もっといえば、
収入をもうすこし増やしたいななんて1年前からいっているけれど、いまの安定したポジションを手放すのも惜しくて転職することも諦めはじめているし、ハワイで暮らしたいなと思っていくつか仕事にできそうなことを考えてみたりもしたけれど、そのための準備だってこの情勢をいいわけにしたりしながら面倒くさがっていてなんにも進んでいない。
不安の方がまさっている。申し訳なさでいっぱいである
安定したポジションを手放すのが惜しい といえばなんだかそれらしいけれど、実のところわたしを受け入れてくれるところがあるのだろうかという不安の方がまさっているからだし、ハワイで暮らすにしたって、英語圏で生活していたくせに、引っ越したての頃の語学で苦労をした苦い思い出から、ついつい英語の必要な場をさけてしまいがちなくせがいまだに抜けきらないからというところが大きい。
もうこれ以上は頭が下がる角度がないほどに、申し訳なさでいっぱいである。
だからといってはあれだけれど、思春期ぶりに文章をつづる習慣をつけることにしている。
エッセイを書きはじめたのも、「児童書作家になりたいなあ」なんて思いはじめてから数年たってしまったことを年明けにふと思い出したからだ。
願わくば、このエッセイがまたもう少し先の自分への懺悔の手紙にならないことを祈って。