私は今までさびしさというものをあまり感じたことがなかった。
幼いころ、両親がいないときは祖父母に、祖父母がいないときは曽祖父母に面倒を見てもらっていて、常に誰かしら喋り相手がいてくれたからである。
みんなお喋りな家系なので、家では基本的にずーっと誰かが喋っている状態である。
寝ているときすら、いびき、歯ぎしり、寝言の3重奏を奏でているので、家が静かになるのは、誰かが体調を崩しているときだけ。
そんな家で暮らしているとさびしさを感じる暇もなかったが、私がオタクになったことで状況は変わる。
家族に推しのことを話すと聞いてはもらえるが、前提知識の説明が難しかったり、面と向かって「そんなものを好きなんて」「気持ち悪い語りはやめろ」と言われたりもする(これは私が完全に悪い)。
思う存分、推しのことを語りたい……!という気持ちでSNSを始めた。
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私がSNSを始めたころは、今とは随分違ったものだったと思う。
自分が思ったことや感じたことを140字に収めて、メッセージボトルのようにインターネットの海に流す。それがどこかの誰かに届いて、共感したときにはそっと星を飛ばしてくれる。
そんなささやかな、顔も名前も何もわからない誰かに届いたのだと感じるからこそ、嬉しいものだったように思う。
私は脳内がやかましいオタクなので、思いつくままに推しの好きなところや、こうなったらいいなという願望を文字にして放流していた。推しが増えたら、その推しのことをバーっと話して、元々の推しの情報が出たらそれに興奮して。
推しが増えるとアカウントを分けるという人もいるが、私は1つのアカウントでいろんなことをつぶやくことで、後から地層のように自分の考えていることが見れる気がしてアカウントを分けずにいる。
いろんなことをつぶやいているのに、見守ってくれているフォロワーには本当に感謝しかない。
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しかし、近年では様相が変わってしまったように感じる。
企業の公式アカウントがエゴサーチを公言していたり、TV番組からは「配信の回数が大切」と言われたり。大切なことだとはわかってはいるのだが、なんというか陰でひっそりやっていたことを暴かれているような、そんな気持ちになる。
SNSは「その場にいない友達に連絡してまで話すほどでもない、でもおもしろいから誰かに言いたい、と思った些細なことをつぶやくツール」だと思っていたので、最近はなんだか息苦しい。推しがかわいい!と思っても「これを推しが見てるかもしれないし、かわいいって言われたくはないかも」と思いとどまる(まあこれに関しては昔から配慮すべきだったのかもしれない)。
ドラマの感想を書く時も「おもしろかった!とかだけじゃ公式アカウントの人も嫌かな」と考えて、小難しいことを書こうとしてしまう。もちろん炎上するようなことや、人が嫌がることを言わない、というのはとても大切なのだが、気軽につぶやいて気楽に交流できるSNSはもうなくなってしまったのだと思うと、少しさびしい。
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それと同時に、今は直接会って話をすることの価値が上がっているのかもしれないと感じている。
喋ったことは文字に残らないので、ちょっと思った愚痴なども、録音でもされていない限り炎上しない。
リアルのさびしさで始めたSNS。そこで出会えたオタク友達とリアルで話すということが、さびしさを解消する選択肢として選べるようになった。
昨今のSNSに感じたさびしさも悪くはないのかもしれない。