私がさびしさを感じるケースは主に2つだと思う。

1つ目は何かが終わった時。学生時代で言えば、卒業。普段は授業やら学校行事やら必死にこなして毎日が精一杯だったはずだけれど、いざそれが終わるとなると、なんだかさびしくなる。お世話になった先生、クラスメイト、毎日通った教室。それらとお別れすることにじーんと来ていた記憶がある。

自分が楽しみにしていたものが終わる瞬間もさびしさを感じることがある。例えば、テレビ番組。たった30分、1時間の週に1度の楽しみ。また来週も観られると思うとワクワクする。それが、最終回を迎えた時、さびしさを覚える。ついに、この作品も今回で終わりかと思うとむなしくなってしまう。

そのテレビ番組は本来なかった状態から突如スタートしたのだから、それがなくなっても決してマイナスになる訳ではないのだけれど、なんだかさびしく思う。

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他には旅行。行く前、道中、真っ只中と、とにかく楽しいんだけれど、帰り道や帰ってきた後の数日間、「ああ、もう終わってしまったんだ」と思うことがある。

かつて、飛行機でディズニーランドに行った際、帰りの機内で離陸時、窓から外の景色を眺めながら、「また、絶対来るからね」と子供ながらに心に誓っていた記憶がある。

物事には何事も始まりがあれば終わりはつきものだけれど、つい終わりがあることを忘れているのか、終わりの兆しが見えた途端さびしくなってしまう。

けれど、ある意味、終わりを迎えられるというのはありがたいことなのかもしれない。旅行にしても、無事に家に帰って来られてこそ楽しい旅行なのである。そう考えると、もっと終わりに感謝しても良いのかもしれない。

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私がさびしさを感じるケース2つ目は、意外にも人といる時である。誰かと一緒にいる時点で一見さびしくなさそうに思えるけれど、時折どこかさびしさを感じることがある。

中学時代、仲の良い友人2人と一緒に3人でつるんでいたことがあった。この3人というのがくせもので、初めは3人で話していてもいつの間にか2:1になっていることがある。それも誰も何の悪気も無しに。私はこの1になっているケースが多かった。1になった時、イメージでは少し離れたところから2人の会話を傍観している感じ。仲間外れにされている訳ではなく、その瞬間私は心の中で1人になっているのである。

この時、なんだかさびしさを感じることがあった。けれど、無理やり2人の話に首を突っ込んでいこうとも思わなかった。自然に委ねるしか方法が思いつかなかったからである。

3人でいる時にかかわらず、人といる時にさびしさを感じることは大人になってからもある。それはおそらく、心が通じ合っていないと感じる時だ。

たとえ、どんなに仲の良い相手であっても100%心が通じ合うことは不可能である。やはり、自分が思っていたのと違う回答やリアクションが返ってくることだってあるし、なんだか話が嚙み合っていないなと思うこともある。

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私がさびしさを感じるケースを2つ挙げたけれど、どちらもごく自然なことだと思う。決して私だけが特別な訳ではなくて、皆、大なり小なりそのようなさびしさを抱えながら生きているような気がする。

私はと言うと、そのようなさびしさを覚えても特にこれといって対処していない。なぜなら、仕方のないことだと思っているからだ。もともと人間は孤独な生き物だし、物事の道理に逆らうことは不可能なので身を任せるしかないと思っている。

けれど、さびしさを覚えた時こそ、そんな自分を大切にしたいと思う。何かを失っても、誰かと心が通じ合わなくても「私はちゃんとここにいるよ」と自分にそっと伝えてあげたい。