人の輪の中にいてもさびしさを感じる。そんな人は少なくないと思います。かくいう私も、その1人。
そういう人は、1人でいても誰かといてもさびしさを感じるので、「少なくとも誰かと一緒にいる時はさびしさを忘れられる」という人と比べると、「さびしい」と感じる時間は長くなります。
そのことに気がついた時、私は何とかその時間を短くできないかと思いました。「さびしい」という感情は心地よくありません。居心地の悪い感情を感じずに済むようにできないかと思ったのです。
学生の頃は、勉強に集中することで、さびしさを紛らわそうとしました。けれど、大人になるにつれ、さびしさに囚われている時、他のことに集中できなくなってきました。この感情と付き合いたくないと願う一方で、さびしさはどんどん増幅し、手がつけられなくなってきたのです。
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しかし、ある時を境に、私はさびしさを何かで打ち消そうとするのをやめました。孤独が好きになったのでも、慣れたのでもありません。
それでも、「この感情は必要なものだ」と思えるようになったのです。そう思えたのは、一昨年(2023年)に、恋人と別れたのがきっかけでした。
その恋人とは5年近く一緒にいたので、「さびしい」などと思うことはほとんどなく、10代後半から20代の初めを過ごすことができた……はずでした。でも、それは、「クリスマスに一緒に過ごす恋人がいない」と嘆く人や「誕生日を祝ってくれる恋人がいればいいのに」と切望する人と比べて、という話にすぎませんでした。
結局のところ、「本当には理解されていない」という気持ちも抱えながらのお付き合いでしたし、遠距離恋愛でした。社会人になると、一緒にいる時間はほとんどなくなり、会えるのは半年に1度程度。パートナーがいるにもかかわらず、いつもどこかでさびしさを感じていました。
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そんな私が彼と別れると、いよいよ、本格的なさびしさがやってきました。心の苦しみや悲しみを打ち明けられる相手はおらず、1人で乗り越えるしかありません。何をしてこの心の穴を埋めたらいいのかと考え始めた時に、そもそも、これまで「さびしさ」と正面から向き合ったことがあっただろうか、と思いました。
パートナーがいるにもかかわらずさびしさを感じていた時、私は「パートナーが悪いのだ」と思っているふしがありました。理解せず、寄り添ってくれない彼に問題があるのだと。
それが時折、彼への八つ当たりとなって爆発することもありました。でも、そんな風にさびしさを不満や怒りに変えたところで、さびしさの根本解決にはなっていなかったのです。
さびしさを何かで埋めず、きちんと向き合うこと。さびしさを誰かが解決してくれると思わずに、自分で乗り越えること。
こんなにも当たり前な「感情との向き合い方」を私は忘れていたのです。子どもの頃は、泣けば誰かが走り寄ってきてくれたでしょう。毎日顔を合わせる友だちに話せば、気が楽になったでしょう。でも、大人になったら、どんな感情も、自分で受け止める必要があると気がついたのです。
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今でも、さびしいと感じることはよくあります。そんな時は、嵐がすぎるのを待つような気持ちで過ごします。そして、自分のさびしさを何かで埋めようとするのではなく、それを感じきり、「この経験を、誰かのさびしさを癒すことに繋げられないか」と考えるのです。
自分のさびしさを埋めるのではなく、誰かのさびしさに寄り添おうと考えること。これが、最近の私の「さびしさ」への対処法です。自分のさびしさだけに心を向けていると、心の穴は大きく広がります。そんな時、別の何かで埋めるのではなく、誰かのさびしさに思いをはせることで、乗り越えるのです。
自分と同じように孤独を抱える人のことを考える時、自分のさびしさを少しだけ忘れることもできます。「さびしい」という感情は、自分だけのものではありません。誰もが感じる感情だから、誰かと繋がるきっかけにもなるのです。
そう思えた時、少しだけ、この感情を好きになることができたような気がします。