付き合っているのか付き合っていないのかわからない、曖昧な関係がある。

ピュアなふうにいえば、付き合う前の一番楽しい時と言える。
大人な感じに言えば、友達以上恋人未満の苦しさもある時と言える。
体だけの関係も曖昧な関係になるんだろう。
若い時は、曖昧なものが受け入れられなかった。
曖昧さの中に何があるんだろうと幼いながらに考えてしまったからだ。

でも、大人になると学習をして、曖昧な時期を受け入れられるようになってくる。
時にそれはいいことである時さえあることを知るようになる。
例えばこんなことがあった。

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大学時代、親しくなった異性の友人がいた。

彼は気軽に冗談を言い合える相手であり、共通の趣味も多かった。
波長もあって、心地よかった。

よく二人で映画を見たり、深夜まで話し込んだりした。
けれど、どちらからも「好き」とか「付き合おう」とか、そんな言葉は出なかった。

私は時折「これってどういう関係なんだろう」と自問した。
友人なのか、それ以上なのか。

彼にとって私は特別な存在なのか、ただの気の合う仲間なのか。
その答えが分からないまま時間だけが過ぎた。

家族に紹介できないのは悲しいなとも思った。

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ある日、彼がこんなことを言った。
「お互いにこんなにリラックスしていられるのって、すごく貴重だよね」
その言葉は、関係の明確さを求める私には少し曖昧すぎたけれど、同時に心に響いた。

「リラックスできる関係」という形で、二人は心地よさを共有していたのだと気づいたのだ。

結局、私たちは付き合うことなく友人関係を続けた。
しかし、その曖昧な期間があったからこそ、互いの内面を深く理解する時間が得られたと思う。

若い頃は、何でもはっきりさせたいと思っていた。

「好きなら好きと言って」「ダメならダメと言って」。

そうしなければ、自分がどう動いていいか分からないと思っていたのだ。
でも、大人になり、人生の中で「すぐに答えが出せないこと」に直面するたび、
曖昧さが持つ意味を少しずつ学んだ。そして少しずつ大人になった。

曖昧であることは、不安や混乱を生む一方で、可能性や自由も与えてくれる。

例えば恋愛で言えば、曖昧な関係の中で相手と対話を重ねる時間がある。

自分の気持ちや価値観を見直すきっかけにもなる。
明確な答えを急ぐあまり、大切な瞬間を見落とすこともあるのだと気づいた。

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もう一つの例を挙げると、職場の人間関係もそうだ。

誰かと仕事をする中で、完全に信頼できるか分からない相手に出会うこともある。

それでも、曖昧な信頼の中で協力を続けていると、やがて見えてくる相手の誠実さや情熱がある。
曖昧なものは「未完成」だ。

だからこそ、その中に成長や発展の余地がある。

曖昧さを恐れず、その中に身を置いてみると、見えてくるものがある。

はっきりした答えだけを求めると見えなくなる風景だ。
今では、曖昧な関係や感情が私に新しい感覚や学びを与えてくれるものだと思える。

たとえば、「好きだけど今は無理」というような感情の曖昧さを経験したとき、そこには「距離を置きつつ大切に思う」という深い優しさがあったりする。

曖昧さを受け入れることで知った感情。
それは、完全な安心や幸福ではないかもしれないけれど、確かに心を揺さぶる大切な何かだった。

曖昧なものを受け入れることで、人生は少しだけ豊かになる気がしている。