「アプローチは男性から女性へ」が原則なら、私は原則に忠実でありたい

卒業して年月がたてばたつほど、学校って不思議な場所だなと思う。
私は地元では元ヤンキー高校と呼ばれるようなあまり評判の良くない私立高校に通っていた。1校しか受けられない都立高に落ちて、交通費のかからない、私の学力で受かる学校がその高校だったのだ。そして、私の出身大学は先日、ハンマーで人を殴る事件で全国ニュースになってしまった。高校も地域ではいまいちな学校だったのに、今度は大学もか……とちょっとがっかりしていた。
高校は1学年500人くらいいるマンモス共学校だった。人数が多いだけ当然、いろんな人がいた。また私立とはいっても、私のような都立に落ちた人が多く、若干学力に比例するのかもしれないが、お金持ちの家庭の人はあまりいなかった気がする。大学進学率も5割くらいで、いわゆるMARCH以上に進学する人はほとんどいなかった。
というわけで私は500人いるうちのMARCHレベルに進学した少数派なわけであった。
そんな元ヤンキー校時代の思い出を振り返りたくなった。学校や教室の授業にとらわれずに振り返ると、10代は10代ってだけでいくつもの淡い、初々しい思い出があるものだなとアラサーになって思う。合唱部で歌った曲はほかのパートも含めてほとんど憶えている。
一時期、少し変わった塾に通っていた。アパートの一室にある、数学をはじめ人生について考える社会人も通える塾。毎月の紙のお便りがとても面白かった。いまでも一部は残してある。
16歳の夏、その塾で知り合った結構年の離れた人に表参道にデートに誘われた。190cm近くある、品川区出身・在住の、アメリカの大学を卒業した人。
挙げれば変なエピソードしか出てこない。ハンバーガーを食べに行ったのだが、テーブルに備え付けのお客様アンケートを急に取り出して、英語で感想を書きはじめたりした。後にも先にも、お客様アンケートにちゃんと文字を書く人は彼しかいない。いうまでもなく……。小学校の体育館に連れていかれて、なぜか彼のバスケの練習(試合ではなく練習!!)を見学したこともある。S(私のこと)は海外に行ったらモテるよ、とか言い出したり、ルイ・ヴィトンの店舗前に座って、彼自身の将来の夢を語り出したり。待ち合わせ中に私が高校時代、最もはまっていた小説家の本を読んでると、Sがそんなに読書家だとは知らなかったと、これまたインドカレー屋さんで目の前で突然、私に手書きの手紙を書きだした中に書いてあった。手紙書くなら目の前で書くんじゃなくて下書きや清書はしてほしいし、そもそもいま、口で言えばいいじゃん!と思うけどまあこれもこれでいいや。
一度、遊びすぎて夜中に家に帰ってくるという、もろヤンキーみたいなこともした。年は離れていたけど、彼は私のことを高校生だからと馬鹿にしたりせず、対等に付き合ってくれた。またこの後も、私にけっこうなインパクトを残してくれた異性は、友人関係も含め、皆アメリカの大学を出ている。ただの偶然だろうけれど不思議!
大学受験の時通ってた予備校で、東大卒の英語の先生が授業で文法の説明をするとき、「原則」と「例外」について話したことがあった。原則はこうだけど時には例外もあるので原則にとらわれすぎず頭をはたらかせよう、みたいな内容だった。
仮に男女の恋愛の原則を「男性から女性にアプローチかけていくべきだ」とすると、私は、原則に忠実でありたい。一見上記のことは私の住んでいた地方では古臭く見えるだろうが、地方創生を本気で考えるなら、恋愛の原則に立ち返っても良いのではないだろうかと私は思う。なぜなら地方の若年女性単身者はコミュニティーに数えるほどしかいない、そんな圧倒的マイノリティーに、マジョリティーが“もはや男から口説くのは時代遅れだから積極的にアプローチしな!”と圧力かけて、いったい何が面白いんだろう。自己責任論のようだ。弱い者いじめのようだ。
独り身でさみしい、泣く→未婚の男性がいる→ときめく→これは例外!!→コロッとFall in Loveしてアプローチしていくとでも思ったのだろうか。
私はそんなメソメソした恋愛至上主義者ではないし、若いから恋愛を含めいろんな人生の選択肢があるから自分からアプローチするほど恋に一途になってる場合じゃない、ということは今だから言っておきたい。
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