整形しなくても私は生きていていい、「前向きな諦め」が私を許し癒す

2024年を振り返ってみると、「諦める」ことに前向きな意味を感じ始めた年だったように思う。2025年は、もっと前向きに諦められる1年にしたい。
幼い頃から、自分の顔がコンプレックスだった。写真を撮られるのは大嫌いだったし、人前で歯を見せて笑うことを恐れていた。
それは大人になっても変わらなかった。職場の先輩に「目が怖いよね」と笑いながら言われたことを思い出して、夜中に1人で泣いた。美容整形クリニックを何軒も周ってカウンセリングを受けまくり、数百万円の見積書を何枚も貰った。
生きていくには、この顔のままではいけないと思い込んでいた。少しでも顔を整えて、「まともな人間」にならなければいけない。この顔は人を不快にさせるから、整形しなければならない。本気でそう思っていた。
果たして本当にそうか?と思えたのは、ここ半年くらいのことだ。いよいよ30歳が近づいてきて、ふと歩みを振り返った時、私のことを笑った人たちのことが、急にちっぽけに、どうでも良く思えた。
私が整形したところで、その人たちが費用を払ってくれるわけでも、私に謝ってくれるわけでもない。私自身、新しい自分の顔に納得できる保証もない。
悩み抜いた末に整形する人もこの世にはたくさんいる。整形を経て、人生が明るくなった人がいることも知っている。彼/彼女らは、必死にお金を貯めて、様々な施術について知識をつけ、辛いダウンタイムを乗り越える覚悟のある人たちだ。
私にはそこまでの覚悟はあるのだろうか。改めて自問してみる。
もしかしたら、整形をしなくても、生きていて良いのかもしれないと突然思った。やがてその小さな気付きは、確信に変わっていった。
可愛くなくとも、美人でなくとも、私が人間であり、かけがえのない存在であることには変わりない。自分の顔は相変わらず好きではないが、好きでなくとも問題ない。誰にも迷惑をかけていないし、そのままの自分でも生きていける。
可愛くあることを諦めた途端、肩に乗っていた重い荷物がすっと無くなったような感覚があった。背筋が伸びて、呼吸が楽になった。
この顔のままでも生きていて良いんだと自分を許せたことが、この上なく嬉しい。
前向きな諦めは、大きな許しとなって、私を優しく抱擁した。
年始に見たテレビ番組で、「諦める」の語源が「明らかにする」を意味する「明らむ」であることが紹介されていた。「諦める」とは、ネガティブなばかりの言葉ではないらしい。
私の中で、「前向きに諦める」ことがストンと腑に落ちた瞬間だった。道半ばで後悔と共に諦めるのではない。自分に向き合って、納得して手放すことが「前向きに諦める」ことなのだ。
生きていく上で、自分には不必要な物事にも固執してしまうことがある。しかし、それを諦めた今、私の人生は清々しい。素顔で生きていても良いのだと自分を認めたら、ずいぶんと心が軽くなった。
今年、私はどれだけのことを諦められるだろうか。意固地になってしがみついていたものたちを、どれだけ手放せるだろうか。
無理に何もかもを諦める必要はない。むしろ、諦めなくて良いこともたくさんある。ただ、自分をがんじがらめにしてしまうような、重たい荷物は捨てていきたい。顔を上げて、前を向いて生きていきたい。
手始めに、自分に課していた高すぎる理想を手放してみようか。0か100かで考えがちな極端な思考を、少しずつ緩めていこうか。
2025年が終わる頃には、ちょっとでも身軽な自分になれていたらいい。前向きな諦めをとおして、自分のことをたくさん許してあげられる1年にするつもりだ。
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