父はモラハラ人間だった。

過去形なのは、今は家を出て、父とは関わっていないからだ。それでも家を出るまでの21年間、散々苦しめられてきた。父がいなかったら、もっと早く休職という選択ができていた。

社会人2年目で組織改正により、私が所属していた営業所が解体された。営業所の仕事が、営業所のメンバーが心から好きだった。だから本当に辛かった。それでも次に配属されたコールセンターで、一生懸命仕事をした。同時期に異動してきた3つ上の先輩に負けじと必死だった。

ところがある日出社して席につくと、何かが「ぷつり」と切れる音がした。それまで自分の中で張り詰めていた糸が切れたような、そんな感覚だった。その途端に、「もう無理だ」と感じた。もうこれ以上頑張れない、と。

それでも「ぷつり」を見て見ぬふりして、仕事をした。しかし「ぷつり」の頻度はどんどん増えていった。朝起きた瞬間、「無理だ」と感じる。体が動かなくなる。家を出る時間が遅くなって遅刻することが増えた。すっぴんで出社することが増えた。

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その頃、朝の「ぷつり」と生理痛が重なって、会社に連絡して1日休みをもらったことがある。その日は何もできず、布団の上でぼーっとして過ごした。

だが夕方になると父がやって来て、父の仕事を手伝うよう言ってきた。父は自営業なので家族が仕事を手伝うことはよくあったが、まさか体調不良で会社を休んでいる娘に手伝わせるとは、信じられなかった。父はそういう人間だった。

それからも朝限界を感じて会社を休むことはあったが、家では休まず、会社に行くふりをしてファミレスに行ったりしていた。どこへ行っても、ぼーっとすることしかできなかった。とにかく何もしたくない。座っているのがやっとだった。

そんな日々が続き、異変に気付いた上司に、カウンセリングを受けるよう勧められた。月に一度、カウンセラーの方が来社してくれる制度が始まったばかりだった。

カウンセリングで自分の思いを話すとすっきりした。気持ちが軽くなるアドバイスももらった。でも少し経つとまた落ち込んで、不安が襲ってきて、何もする気がなくなってしまう。そんな日々が続いていた。そして何度目かのカウンセリングで、心療内科の受診を勧められた。

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「鬱病です。会社は休んでください」

社会人3年目、20歳の誕生日の直後、鬱病と診断された。先生に言われたことがすぐには理解できず、言葉が出てこなかった。

一瞬のうちに、いろんなことを考えた。私は家で休むことができるのか? 考えた結果、答えは否だった。家族に話すことができないからだ。

まず父は論外。精神的な病気など理解できる人ではない。甘えだと言われるだろう。祖父母は優しい人だが、古い人間なので受け入れ難いだろう。そして母には、母自身が父からのモラハラに耐えている中、余計な心配をかけたくなかった。姉と妹には、話すことで接し方が変わったりされたら嫌だと思った。そして何より、父の怒鳴り声のする家の中でゆっくり休むことなどできないと思った。

だから私は、休職しない道を選んだ。

会社を休まないことを先生に告げると、あっさり診断書は出さないことになった。それから、「いつでも診断書は出せるので、休みたくなったら言ってくださいね」と言われた。

鬱病というのは、普通は家族の理解がないと治療は難しい。家事はおろか、入浴や歯磨きさえも億劫になってしまうので、家族の協力は必要不可欠だ。

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それでもなんとか仕事をしながら治療を進めることができたのは、上司の理解と自分の努力があったからだ。

急な体調不良で休むことや遅刻・早退も多々あったが、温かく受け入れ、見守ってくれた。私は私で、必死で病気の特性や体験記などを調べ、「頑張らない」ということを頑張った。とにかく自分の気分が落ち着くことを実践した。それは必ずしも今までの趣味から通じるものではなく、全然違うジャンルのものだったりした。とはいえ家族の前では無理に明るく振る舞ったし、相変わらず父の仕事を手伝わされることもあったので、気が休まるときばかりではなかった。 

それでも通院を続け、少しずつ「頑張らない」を実践するうちに、すっかり元気になった。

だが鬱病に「完治」はない。私と鬱との戦いは、まだまだ始まったばかりだったのだ。