思春期になると、女の子は「お父さんキモい」と言うものらしい。
わたしにはそういうものはなかったが、父親と友達のように仲が良いわけでもはなかった。
あの頃のわたしは、父親という存在が自分の中で薄かった。

存在感の薄い父の心の病。しかし彼は弱音を吐かない強い男

父は昭和の“男は仕事、女は家庭”という価値観らしく、仕事一筋のひとだった。朝起きたら既に出社していたし、残業で平日に夕飯を一緒に食べることもほとんどなかった。遊びに連れて行ってもらったことは何度もあるが、その時の口数は少ないし、元々休日も一人で書斎に籠っていることが多い。
家の中での存在感が、母と比べて圧倒的に薄かった。
一方の母と姉は、感情を躊躇いなく表に出すし、思ったことは口に出す。そんな二人に挟まれていた為、口数が少なくひっそりとしている父はどこか薄暗く、その場で浮いてみえた。幼いわたしは、父の纏う“影”のようなものを感じ取り、それを怖がっていたようにも思う。
だが、その“影”は決して思い違いではなかった。それが父自身に襲い掛かったのは、わたしが小学校五年生の頃だった。

父は会社に行くことができなくなった。会社でのストレスによる鬱病だった。
なんだかお父さん最近よく家にいるな、と思っていた時に、母は真剣な顔で「しばらくお父さんは家にいるからね」と言った。幼いわたしは意味も分からず、ただ「わかった」と頷いた。
それから父は心療内科に通うようになり、少しずつ治療を進めていった。カウンセリングの為に病院に行く姿も、食後に薬を飲んでいる姿も何度もみた。それでも、わたしにはその実感が薄かった。
しばらくして様態が安定期に入った父は、また会社にいくようになった。時々息継ぎをするように休むことはあったようだけれど、一番酷い段階は抜けたようだった。
何だかよく分からなかったけど治ったならよかった――そう安心していた、大学四年生の時。父はまた会社に行くことが難しくなった。過去の鬱病が要因となった睡眠障害だった。

再度の徹底した治療により、今の父は病気と上手く付き合っているように見える。会社を休むことはあるけれど、あの頃ひしひしと感じていた“影”は纏っていない。
だけれど、何がそれほど父を追い詰めたのか。一体、会社で父の周りで何が起こっていたのか――ことの顛末を、わたしは未だに父の口から聞いたことはない。聞くのは純粋に恐ろしいし、何より聞いたところで父は語らなかっただろう。それに今後も語るつもりはないだろうと確信している。
わたしは、それは父の強さだと思っている。

強い貴男の父。過去を乗り越えた今伝えたい、あなたの人生について

父よ。
あの頃のわたしは文字通り幼く、貴男が抱えていた苦しみに気づくことは出来なかった。そして、それを察することもできず、わたしが覚えていないところで貴男を傷つけたかもしれない。
高いカメラを事後報告で買って母に文句を言われている姿も、念願かなって買った中古のミニクーパーを楽しそうに整備している姿も、みているとひどく安心する。
自分の口の中でもごもごと話すから、いつも「なに?はっきり喋って」と聞き返すわたしに少し不貞腐れる姿も、夜食を食べすぎて一ヶ月で三キロも太っているところも、あの頃の父からは考えられないくらいに、家族の話題の中心に確かにいると思える。文句を言いながらも、わたしはそんな父の姿に安心している。

父よ。
今思うと、あの頃のわたしは、子どもながらに貴男の苦しみをどこかで感じ取っていたのかもしれない。でもどうすればいいのか、その方法が分からなかった。幼く未熟な頭では考え続けることも解決策も分からず、自分を守るために思考を放棄したのかもしれない。

父よ。
貴男は一度もわたしや姉を踏みにじらなかった。好きなことを好きなようにさせてくれ、わたしたち姉妹を一度も否定しなかった。
それが“親としての当然”といったらそうかもしれない。子どもの意思を尊重することは当たり前だと。昔のわたしもそう思っていた。
でも今のわたしは、それがどうしてもできない親が社会には大勢いるということを、ようやく知った。

父よ。
愛の言葉を直接口に出して伝えるだけが愛ではないのだと、今ならわかる。

父よ。
わたしは貴男を誇りに思う。
自らの”影”に「勝った」貴男を、誇りに思う。