私は自分の生き方にいろいろ言われたり、「こう生きるべき」みたいに説かれるのが嫌いだ。いろんな人間がいるし、そんなに簡単に人の人生なんか決めつけられるなら、最初から誰も苦労しない。

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最近、私の周りで「地方にいたら周りの目線が窮屈だから、都会に行く。地方は息苦しいし、視野が狭い人が多い」と言って上京していった友人がいる。

確かに言いたいことはわかるのだが、私自身は場所を変えただけで解決することじゃないよな、となんとなく思った。

それに、一応これからも地方で生きていくつもりの私に向かって、それを躊躇なく言い放つ様子にもなんだかモヤモヤした。

インスタのストーリーには「いろんな価値観の人がいて視野が広まる!」と書いていて、見なきゃいいのに勝手にモヤモヤして、結局ミュートにした。
ここは論点ではないのだろうが、仮に視野が広まったなら、なおさらそれをわざわざ私に言う必要があったのか、と感じたからだ。自分が面倒臭いのは重々承知だ。真意はわからないが、友人はそこまで考えて言ってないのだろう。

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確かに、環境を変えることは大事だ。自分に合わない場所、合う場所というのは確実に存在するし、自分の気質や性質を理解することにも繋がる。

ただ、私が生きる上で一番大切だと思うのは「在り方」だ。在り方が定まっていなければ、場所を変えて形を変えて同じことを繰り返してしまうと考えている。

私はその友人を通して、自分も人も、色メガネで物事を見ていることに気づいた。

「地方にいたらこうなる」「都会へ行けばこうだ」地方都会だけじゃない、巷で蔓延る男女論(と呼んでいいのかわからないが)や、何歳ならこうするべきなど−もっともらしい正論を振りかざし、個人攻撃をしているだけの意見。こういう色メガネで世界を見た言動が嫌いだし、これらが鬱陶しいと感じるのは私もそうだ。とてもわかる。それなのに、なぜか友人の発言に釈然としない。

なぜ息苦しく、窮屈になっていくんだろう?そして環境さえ変えれば生きづらさが変わるのだろうか。なら海外へ行けば、もっと生きやすくなるのか?

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いや、きっと住んでいる場所だけが問題なのではないはずだ。

こういうことを言う人は私の友達に限った話ではない。ネットでもしばしばこういうことを言う人を見かける。田舎は監視や噂話ばかり、都会の人は放っとていてくれる。わかる気もするが、地方で30年近く生きてきて監視されていると思ったことは一度もない(親は除く)。

監視されるかどうか、放っといてくれるかどうかは、つるむ人間の人格によるのでは?と思う。それとも私が知らないだけで、私が想像するより都会の人たちはめちゃくちゃドライなのか。

地方にい続ける人間を前に、口に出して「地方の人間は視野が狭い」と言えてしまう友人に対して思うのは、「人へ配慮や共感・想像力を養う力が必要なのでは」ということだ。それを視野を広げるというのだろうか。

それとも友人は他者に対してはそれなりに配慮はしていて、私にだけこのような言動をとるのかもしれない。

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そうやってかつては親しいはずだった友人に、モヤモヤした否定的な気持ちを抱く自分にも嫌気がさしている。それこそ、都会に行けば視野が広がってこのような発言にイライラしなくなるのだろうか。もはや視野が広がるとはなんなんだろう。

色メガネを外す、それは私が思っているよりずっと奥が深く難しいことだ。そうやって、古くからの友人をもはや色メガネで見る自分がいて、このメガネは外すことができないと感じた。

人はガッツリ色メガネをかけたまま、他人に向かって大声で色メガネを外せと言う。そして自分の顔を触った時に自分がメガネをかけていたことに気づいて驚く。