先入観を持つことで自分を守っていた自分に気づかされた彼との出会い

私たちは『色メガネ』という先入観で世界を見ている。周りから先入観を持たれ、先入観を植え付けられ、気がついたら自ら先入観を持つようになる。
私が初めて体験した『色メガネ』は、家庭の中にあった。自我が芽生えた頃には、私に「生まれたときから反抗期」というキャッチフレーズが付けられていた。そもそも記憶にないから私の知るところではないけれど、一側面を切り取って「生まれたときから反抗期」と定義づけられた。
親だって、特に大きな意味や悪気はなかったと思う。でも、そう言われるたびに、なぜかむしゃくしゃして余計に反発した。そのせいで「真の、生まれたときから反抗期」の私が確立された。
そのあとも『色メガネ』の体験は近くにあった。小学校に上がるとき「友達100人できるかな」と、誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。とてもポジティブで多くの人に受け入れられているけど、友達は作った方がいいもの、そしてそれは多い方がいいという先入観を植え付けられた。私も、疑うことなく信じていた。
さらに思春期を迎える頃には「私はモテない」「私はこの色は似合わない」「私は頭が悪い」と相対的な評価をもとに自分自身に先入観を持っていた。
その人と出会ったとき、不思議な感覚があった。これまでの経験で、相手がどんな先入観で私を見ているのかなんとなく分かるようになっていた。それなのに、彼の『色メガネ』を見つけられなかった。
私に向けられた『色メガネ』を探すより、第三者を引き合いにすれば何か分かる気がして、彼の両親や兄弟について聞いてみた。しかし、それでも見つからない。そんな私の見えすいた魂胆に気がついたのか、彼は「人に先入観を持ったり、定義づけしないようにしている」と回答がきた。
驚いた。
今まで出会った人は、多かれ少なかれ先入観を持っていたから。さらに、先入観を持つことで自分を守ったり、定義づけすることでその人を理解したような気になっていた自分にも気がついた。
それと同時に知らなかった心地よさを感じた。どんな私でもいいし、これからどう変わってもいい。先入観がない世界がこんなにも自由で軽いことを知る体験だった。
これをきっかけに、私は先入観や人を定義するのを手放し始めた。すると、今まで本当に多くの人を型にはめ込んで見ていたし、先入観で決めつけていたとハッとした。私が窮屈に感じていたのは周りからの定義づけだけでなく、自分でも自分に先入観を持っていたからなんだと腑に落ちた。
一つひとつの先入観を外していくと、人付き合いが自然と心地良くなった。それは、ふっと風が吹き抜けるような感覚だった。自分の純粋な気持ちだけで行動を決められるようになると、知らないうちに「相手がどう思うか」という視点が消えていった。
さらに、相手に先入観を持たずに、ありのままを受け入れる。すると面白いことに、周りにもありのままの私を受け入れてくれる人が増えていった。
私は今、色メガネの外し方を教えてくれた彼と、家族として2人の子どもを育てている。子育て中も多くの先入観や偏見が、簡単に頭に浮かぶ。
たとえば「魔の2歳児」という言葉。たしかに2歳は自我が芽生えてくる時期だと思う。しかし先入観を持たずに接していたら、息子は「魔の2歳児」にならずに済んだ、という気がしている。まだ一度だけの成功体験だけど、うんと楽だった。
また、おもちゃを親主導で譲らせるのも「自己犠牲が素晴らしい」という先入観の植え付けな気がしている。譲るというのも選択肢の一つだけど、譲らないというのも選択肢の一つだと思う。
冒頭の「友達100人できるかな」も同様、100人いてもいいし、いなくてもいい。私が幼少期、疑うことなく信じてきた世界は、ことごとく先入観で作られていたと思い知らされる。
『色メガネ』の多くは悪気がないところから始まっていると思う。ただ、それによって誰かが苦しくなるのは本末転倒だ。その都度、先入観を持っていないか、先入観を植え付けていないか精査して手放していきたい。
それにはまず、自分が『色メガネ』をかけているかに気がつくことが大事だと思う。だって、それに気がつかない限り、それを外すことはできないから。
あなたも自分の『色メガネ』があるかを確認してみるのはどうだろう?生きる中で培われた思考のクセから抜け出すのは時間がかかるけど、やってみる価値はあると思う。『色メガネ』がない世界を多くの人が実感できたら、きっと今よりも少しだけ心地よくなるはずだ。
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