私だけが恋愛不適合者と決めつけるのもまた固定観念なのかもしれない

とあるクリスマスの1日。
クリスマスソングを流してウキウキしながら、ツリーのオーナメントを飾る。
陽が落ちていつもよりちょっと豪華なディナーにしようと、メインディッシュとクリスマスケーキを作る。
無事完成した料理を食べながら、クリスマス仕様のバラエティーや音楽番組をザッピングする。
なんてことない、クリスマスの日常。
あれ。
サンタのオーナメントを眺めて、ふと考える。
どうしてサンタは中年のおじさんしかいないのだろう。おばさんじゃダメなんだろうか。もしかして、この白髭が大事なんだろうか?それともソリ移動でプレゼントを運ぶのは重労働だからなんだろうか?
キッチンに立って、ふと考える。
どうして料理やスイーツ作りと聞けばエプロンをした女性が思い浮かぶのに、有名シェフやパティシエと聞けばコックコートを着た男性が浮かんでくるんだろう。家事は女性で、仕事は男性という認識だからだろうか?それとも日々の家事は女性の方が効率が良くて、体力を求められる現場では男性が優位だからだろうか?
テレビを点けて、ふと考える。
どうしてベテランの男性司会者と若い女性アシスタントで進行する番組ばかりなのだろう。ベテランの女性司会者に若い男性アシスタントだと番組が成り立たないのだろうか?それともアシスタント=司会者より若い人って認識自体が間違っているのだろうか?
気付かなければ、考えもしないこと。そんなことで、日常は先入観で塗り固められていく。
「差別だ」「不平等だ」と騒ぎ立てる程ではないが、私たちはとかく偏った先入観がはびこっている世界で過ごしているのだと思う。
ランドセルの色が自由になっても公共のトイレはいつだって青のパンツ姿が男性用で赤のスカート姿が女性用だし、夢の国からお馴染みのアナウンスがなくなってもラブストーリーは大抵恋人とのスキンシップが見どころになるように作られている。
この世にはいろんなセクシュアリティがあると知りながら、私の恋愛対象は異性で少数派ではない恋愛をしていると思っていた。ただ、これまで縁があった人たちとお別れしてきた理由を振り返ると、私は多数派の人間ではないのかもしれないことに最近気が付いた。
私は、恋人に肉体的接触を求めないタイプだった。
30代を目前にしてあまりにも鈍感な気づきだろうか……。今までの恋人たち、本当にごめん。
MBTIが関係しているのか元々の気質が関係しているのか、はたまた全く関係ない個人的な体質なのか不明だが、私はパーソナルスペースが人より広く、恋愛対象者に限らず同性の友達や家族でさえ近すぎるとドキドキソワソワしてしまう。
ただこの程度なら意外と理解はしてもらえそうだが、問題は恋人と触れあいたい欲求がほぼないということだ。これは、なかなか理解はできても共感はしてもらえないだろう。
だって世の中に溢れてる恋愛コンテンツは当たり前のように恋人とチューやそれ以上もするし、それがいわゆる”胸キュンシーン”ということになっている。人によっては”ご褒美“と捉える行為でもあるらしい。
スキンシップがないストーリーは大抵カップルのレス問題かトラウマによる拒否くらいで、私の感覚とは完璧には一致しない。
私はこの自分の個性に気付く前は、スキンシップをしたいという相手の欲をのらりくらりとかわすのに必死で、でも内心(カップルなんだからスキンシップで愛情表現するのが普通だよな……)という固定観念に縛られて苦手意識があることを相手に伝えられず、結局悩み疲れて一人の方が楽というのを理由の一つとして自らお別れを告げてきた。
当時の私は自分だけが恋愛不適合者で、相手の「家行きたい」「旅行しようよ」が全て“スキンシップしたい”から派生した言葉にしか聞こえなかった。
今考えれば、好き同士だったらスキンシップをとるのが当たり前という“普通”に囚われずに、相手と話し合おうとすればよかった。もしかしたら今まで出会ってきた人たちの中には、私と同じようにスキンシップを求めてない人もいたかもしれないのに……。
少数派の人間に色眼鏡をかけたことなんてないと思っていたのに、結局自分は自分自身に立派な色眼鏡を堂々とかけていたのだ。
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