14年前のあの日、私は小学4年生で仙台にいた。仙台とは言っても内陸の方で、津波の被害は全くなかったし、揺れただけだ。東北に住んでいれば、当時は地震なんて馴れっこで、「いつもより強いのが来たな」くらいの感覚だった。まさかアレが「3.11」と世界中で呼ばれる大きな記憶になるとは思ってもみなかった。

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毎年3.11になってテレビをつけると、原発や津波の被害を受けた人達の取材をよく目にする。私の場合は、親しい人が亡くなったわけでもないし、大きな被害を受けたわけでもないから、正直なところ、深く同情はできない。

仙台にいたから「被災者」にカテゴライズされるけれど、私にはその自覚が全くない。もっと苦しんでいる人がいるから、そう自ら名乗るのは傲慢とさえ思う。

それでもあの日の経験は、私にたくさんのことを教えてくれた。

私の誕生日は3月14日。それもあって、2011年のその日、母と近くの小学校まで給水に並んだことはよく覚えている。整理券を持っていなかったから、2Lペットボトル×2本の水を入手するのに6時間もかかった。整理券組で終わってしまうのではないかと冷や冷やした。水を貰って家に帰る途中、街灯がついていた。水と電気、それが誕生日プレゼントだった。それでも家はガス設備だったから、料理やシャワーができず、普段の暮らしはすぐには戻らなかった。近くのスーパーやコンビニにもなかなか商品が並ばず、無料の配給で貰った、レトルト食品で食を繋いだ。隣の家には乳児がいたから、食料を分けてあげることもあった。

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私の震災直後の記憶が示すのは、「何不自由なく豊かに暮らせることのありがたみ」である。今大人になって考えてみると、日本で暮らす現代人にとっては貴重な経験だ。

ところで最近でも、初めて出会った人に、「仙台出身です」と言うと、「あの震災大丈夫だったの?」と聞かれることがある。もう14年も経って、自分自身の記憶は薄れているけれど、東北以外の人たちにとって、3.11は案外印象深いようで驚く。

そういう時私は、彼らが仙台と聞いて連想する「震災」のイメージと、私自身の直接的体験との乖離に戸惑いを覚える。彼らの「震災」とは、メディアでよく聞く津波の惨い映像や死傷者数などのデータに基づく。しかし私にとっては、ショックな出来事というよりか、むしろ今後生活する上で大きな糧となる体験だった。

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1年ほど前から、私は日本の島々を旅している。それまでは仙台と東京を中心に、物が飽和した都会で生活してきた。島に来ると気づくことがある。それは、私の震災の経験に近いことが島々では日常的に起こっているということ。

特に日本本土から離れた島や小さい島では、「ない」ことが当たり前で、買い物の選択肢が少ないし、インフラ設備が壊れることも多々ある。それでも人口は少なくても、隣人同士での信頼関係があるから、何かがあった時にお互い助け合える。14年前の体験にも、島の暮らしにも、普段日本で多くの人が当たり前だと思っている社会の脆さに気づくヒントがあった。

改めて思う。私は恵まれている。あの震災を思い出すことに苦はないし、普段も不自由なく生活できる。あの日を忘れないことは、日常の当たり前に溺れないようにするための戒めなのだ。