「若さ」に執着し翻弄された20代を経て、向かうは大人の青春

「素敵な19歳にしてね!」ホーム画面が0:00を示すと同時に、LINEの通知が届く。大学の友人からのメッセージだった。0時よりも少し前に私へのメッセージを打って、日付が変わる瞬間まで待機しているところを想像するといじらしい。友人にとってはなんでもない日かもしれなかった1日の終わりに私を思い出してくれたこと、その上でわざわざメッセージを送ってくれたことが嬉しくて、ありがとう、とほとんど反射的に親指を滑らせた。
今はLINEのプロフィールに誕生日を登録しておけば友達へリマインドが表示される機能があるけれど、当時の私たちは習慣のように友人の誕生日を記憶して、お祝いのLINEを互いに送り合っていた。それは少女たちが大人になるにつれ手放してゆく脆く美しい友情の証で、あのころ少女だった私たちもいつからか誕生日に「◯◯歳おめでとう!」というメッセージを送り合うことはなくなった。
年齢を重ねることを口惜しいと感じるようになったのもその頃からだ。
女性の身体を持って生まれ、「女は若さこそ価値」とする日本社会で生まれ育つこと。それはかつての私に“年齢が低いことにおいてしか自分には価値がない”と思い込ませるには絶好の条件だった。毎年の誕生日が近づくたびに、砂時計の中にいるような焦燥感が脳裏に焼き付いて離れなかった。私は「若さこそ価値」という固定観念を憎みながら、同時にその奴隷になっていたのだと思う。誕生日が目前に迫った冬のある日、電車の中で堪えきれず静かに涙したほどだ。
そうして弾かれるように、若いということ以外で“価値がある”人間たりえるよう努力を重ねるようになった。それは大学での勉強を頑張るとか、アルバイトや就活を真面目にやる、とかいう学生の本分に始まり、社会人になってからは仕事や、大学から始めたベリーダンスをプロとして頑張り続けることに形を変容させていった。
かつての私が駆り立てられていたような若者の悩みや不安の多くを「時間が解決してくれるよ」の一言で片付ける大人は多いが、それは半分くらい間違っている。若さを誇る一方で、若い“だけ”であることに傷付いた少女は、年齢だけではない自身の価値を、大人への切符をみずから努力で掴み取っていくのだと思う。その過程にはある程度の年数を要するため「時間が解決してくれる」というのはあながち間違いではないだろうけれど、何もせずいたずらに毎日を浪費しているだけでは、年を重ねることを恐れる精神のままで、文字通り細胞だけが老いていく。私は仕事とダンスに日々を捧げ、砂時計の中でもがくように20代前半を猛然と駆け抜けた。
やがて気づいたことがある。結局のところ“若さ”はどう足掻こうと全員にとって確実に、そして平等に目減りする指標だ。それを誇り、あるいは恥じ、執着すること自体がそもそもナンセンスではないか。私は“若くあること以外の価値を手に入れたい”と無我夢中で活動することで“年を重ねること”への恐れを攻略できたつもりでいたけれど、それこそが恐れゆえの行動ではなかったか。これまで周囲にときおり「なんか生き急いでいるよね」と言われていたのがその証拠だ。
そんな気づきとともに、年を重ねることが少し楽しみになった出来事がある。
最も尊敬する女性のひとりに「私も今年で28歳です。そろそろ三十路が間近になってきまして…」とこぼすと、彼女は「もう終わっちゃったけど、私は30代が一番楽しかったな。これからそれを経験できるなんて羨ましい」と笑った。曰く、20代までに積み重ねた努力が花開き、経験が実を結び、若いころに描いた目標が30代のうちに多く叶えられたと。
「Eraは今が人生の青春って感じに見えるよ」
何年も足元に絡みついていた得体のしれない恐れが、その言葉にほどけていく感覚がした。このひとのような美しい女性になれるなら、30代も悪くないじゃないか。いわんや「不惑」の40歳。
10代の脆く美しい青春を、そうと知らずに駆け抜けた。そして捉えがたい焦燥感に駆られながら、何かを掴もうとしてもがいた20代が、あと数年で終わる。年を重ねることへの恐れを手放して、これからは大人の青春を謳歌できるだろうか。
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