2011年3月11日東日本大震災の日、私は小学2年生だった。120センチほどしかない身長では地震の揺れをさほど感じなかった。車がぼんぼんと跳ね上がって電柱がゆらゆらと揺れ、大人たちが外に駆け出し何かを叫んでいるのをぼんやりと眺めていた。

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大地震は私に変化をもたらさなかったが、その後の出来事が、確かに恐怖を植え付け大きな変化をもたらした。

福島第一原子力発電所の爆発事故。テレビを見た両親の焦りと絶望感が伝播した。煙が上がっている場所からそう遠くない位置に家があることを地図を見て理解し、齢8にして明日の命が保証されない恐怖を知った。

「すいどうはのんじゃだめだからね」

切羽詰まった表情の両親にそう戒められた日から、蛇口から出る水が一滴たりとも喉を通らなくなった。飲み水や料理はもちろん、うがいにも市販のミネラルウォーターを使い、シャワー中に口に水が入ったら吐き出すようになった。飲んだら死んでしまうかもしれない、という歪んだ強迫観念が強く強く私を縛り付けたのだ。

今でこそ、水道水は安全である。両親も水道を飲みなと言っている。しかし、震災が起きた当時は様々な情報が出回っていた。両親は私を守ろうと必死になっていたのだ。まさか娘がこれほどまでに強迫観念に囚われると思っていなかったのだろう。変に生真面目な性格と子どもには背負いきれない死への恐怖がかけ合わさった不幸な結果だ。

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困ったことに、当時通っていた小学校では水筒を持っていくことが禁止されていた。震災から3年経った暑い夏の昼休み、水道水が飲めない私は、走り回って脱水症状に陥った。身体の異変に気づいて保健室へと歩いていく道中、朦朧とした意識の中で、意地悪だと噂の保健の先生に叱られるのではないかと面倒に感じていた。案の定、症状が改善した後に「運動をしたら水を飲むように」「なぜ夏なのに水を飲まないのか」「あと長袖を着るのをやめろ」と矢継ぎ早に捲し立ててきた。学校では優等生として生活してきた私にとって、事情も知らずに一方的に責められることは非常に腹立たしく不名誉なことだった。

両親から水道水を飲むなと言われていること、水筒が禁止されているから水を飲むことができないこと、皮膚炎で傷跡があるから長袖を着ていることを一つずつ説明していった。意外にも先生は、私の話に耳を傾けて同情的な視線を送り、私を解放した。

担任の先生にも体調が良くなったことを伝えに行くと、先生は「脱水か……そっか、水道飲めないもんね……」とはっとして呟き「明日から水筒持ってきていいよ」と優しく笑った。
数日後、学校全体で水筒禁止の規則が撤廃された。担任の先生の心遣いに感謝しながら、自分は一生みんなと同じように水道水を飲むことができず、配慮されて生きていかなければいけないのかと心に暗い影がかかった。

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震災から14年。未だにシャワーの水が口に入ると無意識に吐き出してしまう。たった8年しか生きてこなかった子どもに染みついた悪癖は、大人になってもなかなか無くならないようだ。

しかし喜ばしいことに、料理に水道水を使えるようになり、抵抗はあるもののうがいはできるようになった。恐怖はもうない。水道水をコップに汲むと、当時の光景を思い出す。それだけだ。

時の流れが、少しずつ戒めを解いてくれている。あと何年経てば、私は震災前のように水道を飲めるようになるのだろうか。