平日の学校帰り、16時半頃の電車に乗るまではいつも通りだった。定刻通り発車はしたが、一駅ちょっとだけ走ってその後止まってしまったのだ。「近くの踏切の緊急停止ボタンが押された影響で、この電車は一時運転を見合わせています。お急ぎのところ大変申し訳ございません」

女性の声で数回アナウンスが入った。仕方がない。私はアナウンスが聞こえるようにイヤホンはしないまま、学生たちでざわつく車内の様子をぼーっと見つめる。

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やぁねぇ、と喧騒ではなくはっきりと声が聞こえた。おばあちゃんの声。「どうしちゃったのかしらねぇ」声の方に視線を向けると、その声とばっちり合致した風貌のおばあちゃんがいた。膝の上に百貨店の紙袋を乗せた、育ちの良さそうな可愛らしい感じのおばあちゃん。私は、隣に座る彼女に話しかけられている。

驚いたが、私は田舎産まれ田舎育ち。知らない奴でも大体友達な、面識の全くない年寄りに話しかけられるミッションはクリア済みである。「……そうですよね、いつ動くんだろう。困りますね」恐らく1人で乗車しているおばあちゃんも不安なんだろう。

「やぁねえ、信用できないわ」
「もう少し掛かりそうですね」
「そうねぇ。それにさっきから放送、女性の声でしょう?それじゃあ全然信用できないわ」

ん……?どういうこと??
おばあちゃんの発言の意図が全くわからない。そうですかねぇ、と曖昧な返事と笑みを返すことしか私にはできなかった。彼女は化粧を施した品の良さそうな顔に、怪訝そうな表情を浮かべている。

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間もなく電車が動き出したが、おばあちゃんからは解放されなかった。電車が駅に着くたびに移り変わっていく彼女の話題。私は「正解」を必死に探すも、見つける前に次の駅へと到着してしまうため、結局相槌ばかりを打っていた。

「最近テレビとかで、オカマとか、男だか女だかわからない人が幅を利かせてるじゃない?ああいうの私イヤなのよ。なんかどんどんちゃんとした男の人が減っちゃって困るわ」
「友人の知り合いだったかしら、聞いた話なんだけどね、そこの娘さんが大学も出てて頭がいいみたいなの。お仕事もすごいことしてるらしくて、でも頭が良すぎるから貰い手がなかなか見つからないって」
「卵子凍結とかしてる人もいるでしょう?そういうのはねえ。女の人も働いて社会に出るとか男女平等とか言うじゃない?最近。でもそれって少子高齢化が進む原因にもなってると思うの。やっぱり男は会社、女は家庭を守るべきなのよ」

彼女の問いかけに何と言えばいいのかがわからない。決して同意はできない。肯定はしたくない。だけど彼女をねじ伏せたいわけでもない。正解がわからない。彼女の口調はどこまでも穏やかだ。仕草も、言葉遣いも。私に敵意はない。他の誰かを傷つけようとしているわけでもない。彼女は彼女の価値観述べているだけ。だからこそ何と言えばいいのかわからない。ただ、私は少しだけわかってほしかった。

「色んな人が、少しずつでも自分らしく生きていけるようになるといいですね」

なんとか絞り出した言葉は、震えていたと思う。

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「女の人はね、結婚してからやっと人生が始まるんだから」

私の降車駅に着く間際、おばあちゃんはそう言った。きっと彼女は素敵な旦那さんや家族に恵まれて、楽しい結婚生活を送ったんだろう。やっと自分の人生が始まったと思えるくらいの、幸せなものだったんだろうと思った。

「おかあさんは、結婚してすごく幸せだったんですね」
「やぁねえ、私結婚してないわよ」

口の中が乾いて、唇を舐めた。そうなんですね、と微笑んだつもりだったが笑えていただろうか。そもそも、声が出ていただろうか。タイミングよく駅について、私は挨拶もそこそこに電車を降りてしまった。きっと彼女は最後も穏やかに「気をつけてね」と見送ってくれたに違いない。

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私はそのまま逃げるように帰路についた。そして家までの道中で耐えられずに泣いた。70、80歳くらいに見える彼女の人生が、まだ始まっていないということが悲しくて。彼女の純粋な価値観としてぶつけられた、偏見や色眼鏡が辛くて。

涙に溺れながら、結婚していない彼女が「結婚を人生のスタート」だと言う理由を考えたとき、気づいた。もしかしたら、彼女も過去に色んなものをぶつけられたんじゃないかと。「結婚しないと人生始まらないよ」たくさんの人に彼女が言われてきた言葉だったんじゃないかと。きっと今よりも結婚しない人は少なかっただろし、風当たりも想像できないくらい強かったのかもしれない。そう考えたら、憎むことはできなかった。

今からでも、少しずつ自分らしく生きていけるようになるといい。彼女も。私も。もう二度と会うことはないだろうけど、私は電車で偶然隣に座っていた彼女のことをずっと応援している。