強さとは優しさ。世界は変えられなくても誰かの状況を変える力はある

組み立て式の食器棚は、右下の扉の閉まりが少し悪い。二リットルペットボトルが六本入った段ボールは持ち直しに次ぐ持ち直しで段ボールの持ち手が破れて、役目を果たさなくなっている。
日本の女子の平均身長を下回る私がリビングの蛍光灯を替えるのには、一体何分かかったか計るのも忘れていた。
背が高い人や力持ちの人、それぞれを得意とする人に頼めば、極短時間でより良い状態にすることができるのは、もちろん私も分かっている。
それでも誰かに頼らないのは、“意地”とも言える、私の“意思”だ。
背も低く力も弱いけど、それはイコール“弱さ”ではないし、それで何ができない訳でもない。
反対に、背が高くても力が強くても“自分の力でやろう!”という意思がなければできはしないのだ。
私が通勤で使う駅は、多くの旅行観光客が、帰路に就くため空港に向かう。しかし、その大半が持っている一体何泊分の荷物が入っているのか聞きたくなる、最大級の大きさのスーツケースを駅構内で持って移動するエレベーターやエスカレーターが限られた場所にしかない。
私が一番よく使う改札付近にも、エレベーターやエスカレーターはなく、階段しかない。地上から地下一階まで、家族連れのお父さんが数回往復して、スーツケースからベビーカーまで運ぶため何往復もするのを何度も見たことがある。
ある時いつも通り帰宅しようとしていた私は、ベビーカーに乗った子供とその両親が、大きなスーツケース二つと、小さなスーツケース一つという荷物をどうやって運ぼうか困っているのを見た。
私は、とても横を素通りなんてできなかった。
私は英語はできなかったが手伝いたい気持ち一つでなんとか「Do you need my help?」とその気持ちを伝えた。そのお父さんは当惑した表情で「Thank you, but it's too heavy」(ありがとう、でもこれはとても重いんだ)と伝えてくれた。
しかし彼らには時間に余裕がなさそうだったし、助けが必要に見えたため、断りを入れて一度その大きなスーツケースを持ってみた。
私の予想よりは、確かにずっと重い。が、持てる!持てることが分かれば、あとは運ぶだけだ!
私はスニーカーではなかったが、幸いハイヒールでもない。困り顔だった彼に笑顔で「イッツオーケー!」とだけ伝えて、私はそのスーツケースを持って降り始めた。彼は驚きながらも「テンキュー」と本当にありがたそうな表情をして、自分もキャリーバッグを持って階段を降り始めた。
お母さんが子供とベビーカーを、私とお父さんがそれぞれ大きなキャリーバッグを下ろしていると、残りの小さなキャリーバッグを手にして素知らぬ顔したサラリーマンが、私たちを抜かし降りていく。そして素知らぬ顔をして消えた。
しかし、そのサラリーマンのおかげで無事に全ての荷物を一度に運ぶことができたのだ。
最大の強さは優しさだ、と聞いたことがある。
今回の私の言動も“手伝いたい”という優しい意思に始まったもので、それは顔すら見えなかったサラリーマンを巻き込み目的を果たすことで、強さへと変化したと感じた。
私の強さは、自分の力で物事を進めようという意思の強さと利他的な優しさだ。
しかし誰かのために頑張れるというのは、誰もが経験したことのある優しさに始まる強さではないだろうか?世界を変えるほどの大きな変化にはいたらなくとも、誰かの状況を変えられる力を常に秘めている私たちは、優しさを持ち続けることで、いつまでもどこまでも強くいられるのではないかと思う。
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