「責任感が強い」という私の長所は、いつしか短所へと移り変わった

面接の時、長所は責任感が強い所ですと決まり文句の様に話せるくらい、私は責任感が人よりも強かった。いい事だと褒めてもらえたとしても、私自身はこの長所にかなり苦しめられ、何度も自分を追い詰めていた。
例えば、誰かがやってくれるという概念が存在しないので、全部私がやらないといけない気持ちになり、全てを一人で行おうとしていた。休もうか悩んでも、他の人が困るかもしれないと思えば、結局は止められない。よく頑張っているねと言えば聞こえはいいが、私は心の何処かで「いや、これ頑張りすぎだろ」そう自覚していた。
仕事しない人達には良いように扱われるし、私自身もまた最後までやり遂げないと気が済まなかった。自分でも思う、どうしてここまで頑張っているのか。別に好きでもない事だし、やりたい事でもない。何故そんなに身を削って、自己犠牲をするのか。
転職して前の職場よりも人間関係は良いのに、私が自分に厳しいから結局また胸が苦しくなる。いつの日からか私の長所は、短所へと移り変わっている気がした。どうして自分を許してあげられないのだろう。
育った環境のせいか分からないが、普段から辛い方を選択しないと成長できないとか、周りの人に嫌われるとかそういう感情が邪魔をしていた。
苦しいことを乗り越えれば、メンタルも強くなってもっと余裕が持てて、将来の私が楽になれるかもしれない。
その考えで私は生きてきたから、きっと無理することが普通だと思うようになったのだろう。多分SOSのセンサーが麻痺している。でも結局、今の私は私の意思で動いている訳でなく、やりたいがやらなきゃいけないことに変わっているだけだ。責任感が強いって、一体何が良いの。ここまで自分を追い詰めて、責任を負ってやろうとする人が最後は体を壊すなんてよくあること。
じゃあこの責任感が強いという言葉の本質は、やりたくない事を代わりにやってくれる、扱いやすい人材って意味なのかな、飛躍している部分はあるかもしれないけど。でも、鬱やそれらの心の病を抱えている人は責任感が強い方がなりやすいと言われている。
ならどうしてそうなるのか。それは多分、周囲がその人を頼りすぎる若しくは任せすぎることと、自分自身で歯止めがきかないからだと私は思う。私自身もやりすぎていると分かっていても、結局はその仕事を行っている。決めたことだから、自分で言ったことだから、そういうのがプレッシャーとなり自分の逃げ道を無くしている。勿論他にも理由や考えはあるから、これが正解ではない。しかしまぁ、自分をここまで追い詰めるモノが長所だとやっぱり私には思えない。だけど悪い事ではないのも事実。
一つのことを最後までやり通すことや人任せせず、自分の力で何とかしようとするから成長出来ると思う。じゃあ、やり過ぎない為にどうしたらいいのか。それは、もっと自分を許して認めてあげること。やらなきゃ、やらなきゃの世界は自分を自己嫌悪のループに迷い込ませるだけに過ぎない。
もう嫌だ、やりたくない、辛い、逃げたい、そう思うのなら素直に感情のまま生きて欲しい。でもこれをしないと誰かが困るからとか、自分がこうって決めたからとか、色々な思いが込み上げてくるかもしれない。
でもそれは、自分の心を傷めてまでやる必要はあるのか。正直私には必要がなかったかなとも思えるし、一方で得た経験もある。どっちを取るかとかそういう話ではなく、もう次は同じことを繰り返さない。自分のSOSをしっかりと見つめる。
人や環境、お金とか沢山の問題で自分の意思が見えなくなるかもしれないけど、それでも先ずは壊れる前に自分をしっかりと見てあげて欲しい。こんなにも頑張っている、努力している、耐えている自分を褒めて欲しい。責任感が短所になるのは、貴方だけのせいではない。
上手くまとまっている気はしないが、こんな所が責任感の強い自分との向き合い方だ。きっとこれを読む方は簡単に言うなって思うだろう、私もそういう感じだし。ただ社会で働く上では代わりが居たとしても、自分の代わりはこの世に居ない。
ここで働いている自分が悪いから、自業自得とか思わないで。寧ろその環境下で、毎日頑張って生きる自分を褒める。責任感が強い、その大切な長所をどうか強みのまま輝ける様に、自分自身の感情に耳を傾けて欲しいな。それぞれ違う場所で戦っている訳なので安直には言えないけど、もっと自分を守っていいし、我儘も言って大丈夫だよって伝えてあげたい。自分にも、貴方にも。
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